カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 備えている

    2021年10月17日
    イザヤ書33:17~22、マタイ25:1~13
    関 伸子牧師

     パレスチナでの婚宴は、多くの人が参加できるように、夜始まります。婚礼が夜始まるということは、私たちの信仰にとって大きなことを暗示しています。「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている」(マタイ25:1)。たとえ時代は闇であっても、まわりが暗い環境であっても、いや、夜であるゆえに、今あかりを灯していることが大切です。

     真夜中になって花婿の到着を知らせる叫び声が聞かれます。起き上がって灯を整えるおとめたちの間に、愚かさと賢さの差が歴然と現れます。火が消えかかっているのを見た愚かなおとめは、油を買いに店まで走らなければなりません。賢いおとめは意地悪をしたのではありません。この油は、簡単に分け与えることのできない、また、人の行く末を決定づける重要なものなのです。

     この話で注意しなければならないのは、花嫁の来るのが遅かったということである。賢い者も愚かな者も共に居眠りをしますけれども、そこで灯を用意している者と、していない者との違いが出てくる。灯の用意、油の用意をするとは、注解書によっていろいろ解釈されているが、私たちはここでまず教会生活のことを思う。

     おとめが教会を、また花婿がイエスを指すのは明らかであるが、灯とは何を指すのだろう。灯の火が重要な役割を担っていそうなことは、油を十分に用意しなかった愚かなおとめが、花婿がそこに来ているのに、油を買いに出てゆくことからも分かる。花婿を迎えるおとめにとって、灯の火は欠かせないものである。

     灯の火が何を指すのか、二つの解釈がある。一つの解釈は灯の火を聖霊と見る。聖書が、「霊の火を消してはいけません」(テサロニケ一5:19)と言われるように、灯にたとえられることがあるのは事実である。そしてこの解釈に立つ人は、愚かなおとめが油を分けて欲しいと願ったとき、その願いを賢いおとめが断った理由として、聖霊は人から人に簡単に手渡せるものではないからだ、賢いおとめの意地悪を示すのではないと言う。もう一つの解釈では、灯の火を善い行いと見る。この解釈はマタイの文脈によく合う。十人のおとめの譬えは、直前の「忠実な僕と悪い僕のたとえ」(24:45~51)と対となっている。それは24章42~44節と25章3節の対応関係からも確かである。対をなす「忠実な僕と悪い僕」が再臨を待つキリスト者の慎重な態度を教えるのだから、これらのたとえもキリスト者の善い行いを教えるとしてもおかしくない。

     二つの解釈は見た目ほどには対立していない。なぜなら、「世の光」の光の源は人にではなく、神にあるからである。神から光を受けた者が、その光を誰の目にも見えるようにと、善い行いに置き換えて示す。そうであるなら、善い行いを暗示する「灯の火」は、同時に神の光である聖霊を指すと言っても間違いではないだろう。緊張感を欠き、居眠りをするけれども、善い行いにより、蓄えて生きていくときに、私たちは主の再臨の時に、明かりをともして出ていき、主を迎えることができる。

     教会は単に人間の集まりであるとか、そのほかいろいろなことを言って、教会から離れていく人がいる。すばらしいことを計画しながら、実行できないのが人間であり、人間の弱さである。教会生活は人間の弱さを補ってくれるものではないかと思う。弱い私たちが、主イエスが来られる日まで、あるいは死ぬまで、信仰の灯をかろうじて持ち続けていくことは、教会を離れてはできないのである。

     主イエスの言葉を聞き、それを実行する者は、神の国に参加することになる。「用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた」(10節)。この「絞められた」は神によって閉められたという意味である。神は霊的に準備のできていない人を天の祝宴から閉めだす。残りの愚かなおとめたちが結婚式場に入るために必要なことは、「主よ、主よ」と呼びかけることではなく、主人の思いを実行することである。主人である花婿の思いとは、花婿が来る時に準備を整えて待っていることであり、花婿と共に結婚式場にはいることだったのである。

     人の子イエスの再来がいつのことなのかは、誰にも知らされていない。それは神の思いの中にのみあり、神が決めた時に実行される。したがって、イエスの再来を待つなら、イエスがいつ来てもいいように人は準備を整えておく必要がある。再臨の日に備えて、ある牧師は、いつその日が来てもよいように部屋の片づけをしておくようにと語った。それを聞いて部屋を片付けておくことを心がけるようになったと話す友がある。主イエスの決定的な再臨は最後の日、一度だけでしょう。しかし、小さな再臨なら毎日繰り返されます。霊を受けた私たちは、灯を手に、毎日、主イエスを迎え、さらに霊を受ける歩みをしていきたいと思います。祈ります。