カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神からくる愛によって

    2021年10月10日
    申命記4:1~8、ローマの信徒への手紙13:1~10
    関 伸子牧師

     国家権力をどのように見ていくかということは、非常に難しい問題である。パウロは、「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです」(13:1)と規定している。

     この解釈の鍵は、第12章21節の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」という言葉にあると思います。これが、国家権力や上に立つ権威に対する、キリスト者の姿勢であると思う。パウロはここではおそらく、現実の社会生活を無視する、あるいは拒否して生きようとする熱狂主義的な人々を念頭に置いている。いたずらに権力者を敵視することや、隠れて行動することによって自滅への道を選ぼうとする人々への憂慮と配慮がここにあるのだろう。

     主イエス・キリストはこの世の権威に従わなかった。パウロもここで「権威者を恐れないことを願っている」と言う。権威者を恐れるのでもなく、おもねるのでもなく、いたずらに敵視するのでもないあり方を、聖書は全体として語るのではないか。この箇所は、この世の権威者に対するあり方が隣人愛の教えと共に語られている。
     
     申命記は、私たちが「正しい掟と法を持つ大いなる国民」であることを示すようにと命じている。私たちは正しい掟と法をもっている。それをこの世界のただ中で語り続けることは、この世にあって神の愛を公然と示すことでもある。

     信仰者の生活は教会を中心として行われる。しかし、それは教会の中だけで生きるということではなくて、どんなことでも信仰を中心にして生きることであり、教会が与える信仰生活が変わることのないよりどころとなる。だから信仰者にとっての権威は、最終的には神に、具体的には教会にある。

     人々が税金を納めるのは、単に納税せずに罰せられるのを恐れるためではなく、その権威が神の下に定められたものとして、神も人々の納税を見ているという良心に従うためでもある。重要なことは、父母や国家に対する義務がこの世における一時的なものであるのに対して、神に対する義務は天においても継続される永遠のものであり、それは同時に喜びでもある。なぜなら信仰者たちは本来、天に属しているからである。

     続く8節から10節は、「愛」という鍵言葉でひとつのまとまりを見せている。12章9節以下で既に神からの霊的賜物(カリスマ)が愛の働きとして語られていることから、この部分を、信仰者の生活は心から神に仕える霊的礼拝である(12:1)ことの要約であると解することもできる。信仰者の生活は神の恵みの豊かさのもとに営まれている。とすれば、義務を果たす(借りを返す)ことは律法の基本であるにしても、愛は「永遠の借り」なのである。そこで、愛によって初めて律法の目指すところが十二分に満たされるのである。しかし、ここでの問題は、神の賜物に押し出された隣人愛である。

     最後に愛は「悪を行わない」と言われている点に目を留めたい。「愛は隣人に悪を行いません」とは、例えば、隣人に姦淫、殺し、盗み、むさぼりを行わないということであり、誰でも自分を大切にするように他の人も大切にすることで、律法の要求は満たされる。「「全う」は「実現」とも訳せる。「実現」とは、「満たされる」ことであり、律法を実現するために来て、十字架刑に至るまで実際に隣人愛を実践したイエスを信じることで人は律法を実現することができる。主イエスはこの世で弱い人、貧しい人、病んでいる人を愛し、弟子たちをも最後まで愛し、御自分を十字架に掛けた人々に対する許しさえ父なる神に願い、十字架上で同じ受刑者の一人に対して慰めの言葉を語っておられたからである。

     主イエスが全身全霊で神を愛することと、隣人を愛することを言われましたが、神を愛することなしに、真に自分を愛することもできないのです。マザー・テレサの働きを思い起こします。1979年度ノーベル平和賞の受賞を契機として、その信仰の働きが、多くの人びとに一気に身近になりました。彼女は受賞の知らせを聞いたときこう言う。「私個人はノーベル平和賞に値するとは思いません。しかし、人びとが貧困問題にもっともっと目を向けるために、この章が与えられたと思います。・・・私たちを愛と信頼とで受け入れてくださったカルカッタの貧しい人たちに感謝します。神よ、貧困と空腹のなかで生き、死んでゆく世界中の仲間たちに奉仕するに足る人間になれますように」。イエス・キリストへの借財を返し続けた人の証しがここにある。

     神の愛は私たちには返しきれない負債ですけれども、私たちは、死ぬまで主イエス・キリストへの借財を返していく。その愛の負債に生きる者たちが、喜んで家に帰り、家族と共に生き、友人たち、隣人たちと共に生きる、またそこで、真実のいのちを生き続けるものであることを信じます。祈ります。