カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    2021年11月7日
    創世記15:1~18b、ヤコブの手紙2:14~26
    関 伸子牧師

     ヤコブは第1章で、国外に散っていたユダヤ人キリスト者に宛てて、御言葉を実行する人になりなさいと勧めました。そして、その具体的な実践として、人を分け隔てしてはいけないと語りました。今日は、信仰と行いは分離することはできないというヤコブの手紙の中心的なテーマが展開されているところをご一緒に読みます。

     主イエスが言われたことを思い起こします。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである」(マタイ7:21)。主イエスに「主よ、主よ」と口先で告白するのみで、地上のイエスと一つである点の父の思いを実行しない人は天の王国に入る資格がない。逆に、天の父の思いを実行する人は、イエスの姉妹兄弟となり子として天の父の王国に入ることができるのである。

     パウロもこの強調点を見逃していない。「神は、おのおのの行いに従ってお報いになります」(ローマ2:6)。パウロが救いの恵みと信仰を強調したことは事実である。しかし同時にパウロが行為も重要であると言っている。ここでヤコブはパウロ主義を非難したのではなく曲解を指摘する。「私には信仰がある」と言うことは誰にでもできる。しかし、その信仰が知識のみでなく、生活のなかでのあらゆる部分において、神に喜ばれる行いに導かれているかどうかが大切なのである。

     続いて行いが伴わない信仰というものが問題にされる。友人が身に着ける衣服も、食べ物もなくて困っているとき、ただ同情のことばをかけるだけで、その状態をよくするための努力もしないのなら、いったい何の役に立つだろうか。「それと同じように、信仰もまた、行いが伴わなければ、それだけでは死んだものです」(17節)。口先だけの信仰は、信仰とは言えないのである。ヤコブは、私たちが御言葉をどのように受け入れているか、その点を語る。第1章21節に「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」と命じていました。私たちが御言葉を、自分の「心に植え付けられた」そのような御言葉として本当に受け入れているかどうか、なのである。

     真の信仰は、その人自身を救うだけでなく、信仰上の姉妹兄弟をも救うのであり、そうして初めて生きた信仰となる。したがって、信仰に基づく「業」を行うことが
    必要とされる。「信仰」は「信じて行う」と言うべきであり、この業はパウロが示したように、「愛を通して働く」業である(ガラテヤ5:6)。

     18節は大変論争的な文章です。ヤコブは業のない信仰の最悪の例として悪霊たちの信仰に言及しているとも考えられますけれども、むしろ、信仰と業が一つであることを続けて皮肉によって語っているのではないか。悪霊的な信仰は、偽物の信仰であり、真の信仰の恐れは、神を恐れる敬虔である。

     続けて、アブラハムが義とされたのは、「息子のイサクを祭壇の上に〈献げる〉という行いによらなかったか」と問いかける。このアブラハムの〈献げる〉という行為の中に、根源的な意味での自己愛の否定を読み取ることができる。キリストを信じるとは、人間の側、自分のうちにもう可能性がないことが、神によって可能とされると信じることである。滅びしかない者が命を得ると信じることである。それは数える営みが、数えないものに圧倒され、解放される出来事である。人はおろかである。アブラムはなお「何によって知ることができましょうか」と愚問を発した。しかし主はそれを無下に却下されず、動物を裂き、間を通るという原始的ともいえる売買契約の儀式をさせる。私たちはどうだろう。もっとすごい出来事を見たではないか。動物の犠牲どころではない。御子キリストが裂かれたのである。これ以上、何を望む必要があろうか。

     娼婦ラハブも、「卑しい女」と思われていたにもかかわらず、ただ神があわれみをもって顧みてくださり、神の契約の民に加えられたのである。このラハブの行為は後期ユダヤ教の諸文書のみでなく、新約においても称賛されている。信仰は冒険なのである。いつも人間的には計算し難く、自己に対する執着の愛から解き放たれた行いへ飛躍する。「自由をもたらす律法」に生きるのである。そのような行いは、信仰と分離したことではない。私たちの信仰は、そのような行いへと促され、神の律法を全うさせるいのちの祝福に導かれる。

     トゥルナイゼンは、「行いのない信仰もまた死んだものです」という、このところの説教を「鋭い言葉、悔い改めをうながす言葉である! だがこの言葉は、この世に向けられているのではなく、むしろ私どもに、教会に、信仰者に向けられているのである」と語っている。主のみ顔の光の中で自分の顔を点検し、私たちの気づかなかった「隠れた罪」を主に審れながらも、赦され、そして「神の友と呼ばれる」にふさわしく、新しく立ち上がって、信仰と行いを日々の生活のなかで実践していきたいと思います。祈ります。