カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    2021年11月14日
    詩編118:10~18、コリント二6:1~10
    関 伸子牧師

     「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です」(コリント二6:2b)。パウロが語ったこの御言葉は私たちの心を高く挙げる希望の言葉であると思います。パウロはどのような現実の中でこの言葉を語ったのでしょう。

     パウロはすでに、福音の中心的私信を第5章14節~19節で語りました。すなわち、キリストの死と復活の出来事がすべての人に対して起こっており、信じるすべての者はキリストの愛と生命のうちにおかれている。新しい創造である。それ故に、肉(地上的、人間的な価値基準)はもはや優先しない。この新しい神と人間の関係を和解の福音と呼びます。この和解の福音をすべての人にもたらす務めをパウロは受けました。パウロは「神の協力者」として「神と共に働きながら」(直訳)勧めている。パウロを伝道者にしたのは、ひたすら、神の恵みによってでした。「神の恵みをいたずらに受けてはなりません」という句にパウロの生活の目標が現われています。それは、どうしたら、自分が受けた神の恵みを空しくしないですむかということであった。

     コリントの教会には、一つの大きな問題がありました。それは、偽りの教えを教える偽使徒と偽教師がいたことです。パウロは、そこで、少なくとも1年半腰を据えて、御言葉を教えていました。パウロを通して人々がイエスを信じ、教会が建てられました。しかし、その信頼が偽使徒たちによって引き落とされて、パウロから心理的に距離を離すようになってしまったようです。そこで、パウロは、この手紙の冒頭からずっと、自分が正統であることを弁明しなければなりませんでした。

     そこでパウロは、イザヤ書第49章8節を引用してこう言います。「主はこういわれる。私は、恵みの時にあなたに答え 救いの日にあなたを助けた」。今、この恵みを受け取り、今、この救いを自分のものにしてください、という呼びかけです。ここには原文にある「見よ、今や」が訳されていません。「見よ、今は最も恵まれた時。見よ、今は救いの日です」。ある時に、今ここで、受けてほしいという思い。「見よ!」と言いながら、神と共に働くパウロの信仰の言葉が続く。「今」が大切なのである。なぜなら救われるのでは「いつか」ではなく「今」だからである。

     パウロは、コリントの人々に真の使徒として自分を提示しなければならなかった。「神の僕」としての自分を受け入れてほしいのである。ここでパウロは、どのように神の僕として実を示してきたかを語る。パウロは肉体的にも精神的にも痛めつけられたが、倒れることがなかった。いつも、喜ぶ心を失わず善を行っていくことが可能であった。その超人的な生き方の根底には何があったのだろう。それはイエス・キリストにおける「神の恵み」(1節)であるという。使徒として働くことを可能としたものは、「神の恵み」であり、それがパウロを活かし用いて伝道をなさしめたのである。「神の恵み」に生かされるとき、「神による完全な武器」を身にまとっているのである。伝道者も、しばしば、人の批判の的になります。正しく神の言葉を宣べ伝えることは、非常に困難があります。ですから、この務めが、そしりを招かないように努めるほかありません。

     しかし、パウロは戦いの場で恵みの賜物を授かりました。パウロの宣教活動は彼の有する人間的な精神力によってではなく、霊の働き、聖霊の力によったのである。パウロの弱いときにこそ、キリストの力が彼を蔽った。神からいただいた自分に与えられたもの、それが自分の力になる。自分のものになってくださっている神の霊の力と言うことができる。そして、偽りのない愛。主イエスにあってその火を点ぜられるきょうだいたちへの真実な愛に生かされている事実。愛の挫折もあるが、愛に生かされている。それがきょうだいたちへの愛となって伝わる。

     パウロは神の僕として、自分を人々にあらわしながら、主の前に謙遜に信じる道を歩んだ。神の僕の生活というのはいよいよ不思議であります。10節以下にそれが記されている。「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。パウロはこの世の基準では貧しくても、神の恵みにおいては豊かであった。すべてのものを持っている。大事な意味を持つ。無一文のようですべてのものを共有している。パウロは家もなく金もない者のように見えたかも知れませんけれども、しかし、人々の魂を富ますものをたずさえていたのである。そこでこそ信仰のありようが問われる。ここで語られるのは、まさにそこにおける自由であり、豊かさである。しかも、その自由が生む豊かさを生きる喜びが、勝利が、ここで誇りをもって語られる。

     自分たちは真実である、自分たちは、だれよりも生き生きしている、自分たちはどんな目にあっても殺されることはない。神は生きて働いていてくださる。その神さまの息遣いに息を合わせて、自分の救いのためにも、神さまと一緒に働くことができる。したがって、何もないようにみえるが、魂の富から言えばいっさいのものを持っている。恵みの時は、今。救いの日は、今日、既に来ているのである。この言葉をもって、洗礼に導かれること、また信仰告白が新たにされることを願います。お祈りをいたします。