カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 救いへのダッシュ

    2022年2月20日
    詩編147:1~11、マルコによる福音書2:1~12
    関 伸子牧師

     主イエスは多くの人々を癒されました。福音書が記すイエスの伝道の旅において、「いやすキリスト」の記述がかなりの比重を占めていることは明らかです。しかし、マルコ福音書第2章の「体の麻痺した人」を癒された物語では、癒したことではなく、癒しに先立って罪の赦しが宣言されたことに驚きます。

     「体の麻痺した人」、これを今までは「中風」と訳していました。中風は、現代においても、完全治療が難しい病の一つだと言われています。ましてや今から二千年も前に中風になるということは非常につらく、悲しく、苦しいことだったでしょう。私たち自身も、身体に不調があると早く治して元気になりたいと思うものです。けれども、それが罪に関しては、自分が罪から清められたい、ゆるされたいと、どれだけ真剣に考えるでしょう。肉体のことについては一生懸命になりますが、魂の問題になると、無関心、不熱心なのではないでしょうか。ここには病人を運ぶ友人の凄ましさがあります。それは私たちをも圧倒します。「無駄だ」、「礼儀というものもある」という気持ちに対して、友人たちの「これほどまでに」、という姿を見て、主イエスは「彼らの信仰を見て」(5節)、言葉を発せられました。

     マルコ福音書全体の中で、イエスが人に向かって「あなたの罪は赦される」と告げるのはこの箇所だけです。私たちの罪は、人からではなく、神からゆるされなければなりません。罪赦されるとは、破壊された関係が再建されて、孤立していた者が神によって健やかな関係の中に引き戻される、ということでもあります。ある意味、体の麻痺した人が、彼をなんとか助けようとする友たちに運ばれ、イエスの前に置かれていること自体が、彼の罪が赦されているということのしるしになっています。この場面そのものが、神の国(神の恵みによる支配)のしるしです。

     それにしても、主イエスがいきなり「あなたの罪は赦される」という大胆な発言に及ぶというのは尋常ではありません。何がそうさせたのでしょう。やはり四人の男たちの行為でしょう。家に入れなければ普通はあきらめます。しかし、彼らは屋根をはがして穴をあけてしまうのです。当時の家の屋根は、横はりの上に木の幹や角材を組み、さらに木の枝を編んだものや粘土で何層にも覆っており、また、屋上に至る階段が家の外側に付いていたので、このようなことが可能だったのです。この人たちはこの病人を見捨てることなく、また、祭司や医者や魔術師にではなくイエスに最後の望みをかけて、このようにして、イエスのもとに連れて来たのです。これはどう見ても社会的常識を逸脱する行為であって、やり過ぎです。しかし、信仰ゆえに彼らは一線を越えたのです。主イエスは一線を越えて自分に迫ってくる人間に滅法弱いのです。イエスはここに人々の信仰を確信しました。

     当時の人々は一般に、病気は本人の罪か両親や祖先の罪のためと考える傾向がありました。しかし、イエスは、病気が神の支配したにある悪霊によるものであると知っていました。世の人が”秩序を守る”と称して引く境界線を突破し、捨て身で人が近づいて来るとき、イエスはその人に神の国の到来を宣言するために、御自分もまた一線を大きく踏み越えるのです。たとえ、それが、波紋を巻き起こし、大騒動になり、自分の身に危険を招くことになっても、社会が幾重にも引いた分離の線を越えて、神の恵みによる支配を言葉と業とで現わしてくださるのです。

     しかし、6節から10節を見ると、律法学者とイエスとの問答になっています。イエスが「子よ、あなたの罪は赦された」と断じると、彼らは「この人は・・・神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは神おひとりだ」と言います。彼らの言葉の後半部は確かに正しい主張です。神だけが人の罪を完全に赦すことができます。

     この律法学者の内心の声は、主イエスの内心の声でもあったのです。主イエスは、体の麻痺した人、4人の友人たちの凄まじさに接した時、屋根に穴を開け、天井からつるされた病人の姿を見て、主ご自身の内心の声「これは私の愛する子、私の心に敵う者」の言葉を聞きながら、神ご自身として、この病人に近づき、奇跡を起こしたのです。

     癒されたのを見て、皆は大いに驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って神を賛美しました。神は、私たちの存在そのもの、家族のつながり、社会のしくみ、およそ中風の人のように麻痺して動けないような状況に向かって、罪の赦しを与える言葉が語られるのです。赦すのが仕事だから赦すのではありません。主イエスの言われる「あなたの罪はゆるされた」は、主イエスの側からの一方的な宣言であり、このような言葉は、十字架の血のついた言葉なのです。そこに体の麻痺した人は4人の友人に連れられた突進してきました。そこで、イエス・キリストの十字架の贖いがある言葉が語られたのです。

     この言葉を語られた人、この言葉を受け止めることのできた人は、床をとりあげて立ち上がり、神をあがめるのです。十字架が私たちの罪の贖いであることを、そして本当の命に生きる復活こそが、喜びであることを知る者として歩み続けたいと思います。祈ります。