カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 惜しみなく蒔く

    2022年2月13日
    コヘレト書11:1~6、マルコによる福音書4:1~9
    関 伸子牧師

     主イエスは多くのたとえを用いて語られます。マルコは第4章に種蒔きのたとえを3つ記します。日本とユダヤでは種の蒔き方は違うでしょうけれども、ここでイエスは、生活に密着した誰でも知っている具体例を使って神の国の奥義を教えておられます。

     主イエスは「聞け。見よ、種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と語り始めます。「見よ」は聖書協会共同訳に訳されていませんが、聞き手に注意させることばです。神の国はまず言葉としてきました。聞くことは驚くほどの実を結ぶのです。

     主イエスがお語りになったたとえにタイトルをつけるとすると、どのようになるだろう。このたとえは「種を蒔く人」のたとえと呼ばれることが多いのです。また、「種蒔きのたとえ」とも呼ばれます。13節以下ではむしろ、「種が蒔かれた土地」のたとえとして説き明かされています。そこで、今日は、「種」と「土地」に注目してみたいと思います。

     「種」に注意を向けるならば、神の国は、目もくらむような大事業でもなく、有無を言わせぬ力でもなく、小さな種として、言葉として到来したと知らされます。種は不思議です。小さいけれど大きな樹になり、何百倍もの実をみのらせます。改革者カルヴァンは、「神は万人の心に宗教の種を宿された」と言いました。

     主イエスご自身が語られたように、人間とは違って鳥は種もまかず、刈り入れもせず、倉に集めることもしませんけれども、天の父なる神が養っている生き物です。また、家が安定するために必要なことは、岩という堅固な土台の上に建てられていることですけれども、植物が安定育つためには土の少ない岩地ではなく、多くの肥えた土を持つ場所にその種がまかれることです。岩地の上にまかれた種は、太陽によって枯れ果ててしまいます。「ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて塞いだので、実を結ばなかった」(7節)。茨は、降水量の非常に少ない土地で生える棘の多い雑草一般(あざみなど)を指すそうです。世の思いわずらいや富のまどわしは、茨と言うことができます。

     土地、大地、それはここで私たちのことを指します。主イエスは、あなたは良い地、美しい土地だと言って種をまいてくださいます。御言葉に対して美しい、敏感な心だと。私たちの心には小さな種があります。自分の力で神の国を築く必要はありません。この種を、神の言葉をしっかり持っていたらいいのです。蒔かれた種には、成長し、実を結ぶ力があります。神がお定めになった時に、人間の側の抵抗を破って、神の国は完成します。その時には豊かな収穫がもたらされることになります。農夫が収穫を信じて、収穫の時を待ち続けるように、伝道する者も、目に見える失敗に絶望することなく、神が備えていてくださるすばらしい終わりの時を待ち続けたらよいのです。

     良い土地に落ちた種は複数形で述べられていることが示唆するように、神の言葉は本来、豊かな実を結ぶはずです。なぜなら、その力を内に秘めているからです。「雨や雪は、天から降れば天に戻ることはなく 必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ 種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も 虚しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望ことをなし 私が託したことを成し遂げる」(イザヤ55:10~11)と言われているとおりであります。

     このような種蒔きの仕方でよいのだろうか。ここはうまく育つだろうと予想できる場所にだけ蒔くのではありません。「風を見守る人は種を蒔けない。雲を見る人は刈り入れができない。朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、そのいずれもなのか あなたは知らないからである」(コヘレト11:4、6)。

     30、60、100倍という数字で表現されるのは、多くの種が浪費とも見える仕方で枯れるという結果の後に、良い地におちた種が実を結ぶ、その爆発的な成長力です。神の言葉は、さまざまな形で蒔かれています。説教はもちろんですけれども、それだけではありません。教会学校、聖書会や祈祷会、書物やテレビ、ラジオの中で御言葉が引用されます。祈りの言葉や賛美歌の中に映し出されます。

     このたとえの大部分が語るのは、「種」と「土地」であるにもかかわらず、このたとえがしばしば、種を蒔く「人」のたとえと呼ばれてきたのは興味深いです。最後に「聞く耳を持つ人は聞きなさい」と、主イエスは、「聞きなさい」と繰り返しながら、種を蒔き続けてくださいました。私たちを信じぬいてくださいました。すべての種が失われたように見えたあのご受難の時も、私たちを信じて十字架についてくださいました。主イエスは、終末における大いなる収穫を約束していてくださるのです。だから、教会は種を蒔く。成長させてくださるのは神であることを信じて、種を蒔き続けることをあきらめずに続けていきましょう。祈ります。