カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の力強い恵みの勝利

    2022年6月26日
    サムエル記上16:14~23、マルコによる福音書5:1~20
    関 伸子牧師

     主イエスによるゲラサ人の癒しの物語で、汚れた霊に取りつかれた人は住む家を失っていました。この人は「墓場を住みかとしていた」と記されています。こうしたところに身を隠さないではいられない特別な事情があったのです。この人にはプライドだけが残っていたのかもしれません。他人の哀れみを受けるのが耐え難い苦痛だったのかもしれません。人びとが足枷や鎖で押さえつけようとしたのは、この汚れた霊に取りつかれた人が命の領域へ出てこないようにしたということでしょう。これほど力も強く、すぐれた体格をもっているのですから、悪霊にとりつかれなければ、きっとりっぱな人になれたでしょう。どんなすぐれた力も、神さまのあわれみを失うと、まったく、みじめな姿になってしまうことがわかります。

     原子力であれ、何であれ、神さまから離れた力は、この汚れた霊に憑かれた人のように、神さまの栄光をあらわすより、物を打ちこわし、どうしようもない力になります。だれもこの力をつなぎとめておくことができません。しかし、神さまは、人間に力をお与えになりました。それは、海に向かって、「黙れ。沈まれ」と言われたあのイエスさまの力です。

     この人がいま、イエスがこの地に来られるやいなや、「走り寄ってひれ伏し、『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』と大声で叫んだ」(7節)。この「汚れた霊に取りつかれた人」が、どのような人であったにしても、たしかにここにはイエスとの出会いによる一人の人間の再生の出来事が語られています。主イエスがゲラサの地に到着したことが、ただちに、まだイエスについて聞いたことも見たこともないこの人に影響を与えたというのは、おそらく、主イエスがおいでになったことがこの地方の人々にも伝わり、そのことがこの男の耳にも入ったのです。

     汚れた場所に住み、汚れた霊を宿しているこの人と天に住む父なる神の子である聖なる主イエスとの間には、一見何の共通点もありません。しかし、イエスはこの人の内に、ご自分の将来の姿をかすかに見ていました。この人が日夜墓場や山で叫び続け、自分を鞭で打ち叩き、鎖を引きちぎって墓場から出て来たように、イエスは人々に捕らえられて縛られ、兵士たちに葦の棒で打ち叩かれ、十字架上で父なる神に叫び声をあげ、葬られた墓場から復活して出て来られるからです。

     汚れた霊にイエスは「名は何と言うのか」と尋ねると、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えます。レギオンはもちろん通常の名前ではありません。「軍団」という意味です。複数形です。ローマ軍の最大軍団の単位で、一レギオンはおよそ6千人の兵士からなり、多くの下部組織に別れていました。実際、悪霊が「大勢」だったというのは、「2千匹ほどの豚の群れ」に乗り移ったことから証明されるとも言えるでしょう。実際、「汚れた霊どもは出て」、イエスの許しのもとで豚の中に入り込みました。それは悪霊の運命となったのです。いったん出て行った霊が行先を失い、豚と共に汚れた霊どももまた海に堕落したのです。汚れた霊から解放されない人生の行く先が暗示されています。解放の時はすでに来ています。この人は解放されました。

     豚飼いたちは逃げ出して、町や村にこのことを知らせました。その近隣の人々は自分たちの豚が集団自殺したのを知って、大きな衝撃を受けました。そのうえ、悪霊につかれていた人が正気に戻っているのを見て、恐ろしくなりました。

     解放されたこの人の様子は、「服を着、正気になって座ってい」た、と描かれています。「服を着」というのは、墓場を住みかとしていたときこの人は「衣服を身に着けていなかった」からです。「正気」と訳されているのは健全な理性の意味です。そこに「座っていた」―このことが重要なのです。この人はもはや裸で俳諧したりしません。また自分ともろもろの悪霊の区別がつかないような状態にもありません。み言葉に聞きつつ、それゆえに正気になって、しっかりした判断をすることができるようになったのです。

     主イエスがゲラサを去ろうとしたとき、この人はお供したいと願いました。しかしイエスはこれをお許しになりませんでした。むしろ家族のもとに帰るようにお命じになりました。ペトロやアンデレは家族を捨てて主イエスに従うことが求められました。しかしこの人には別の使命があるとイエスは見たのです。この人は家庭伝道に遣わされたのです。「自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」という表現には、悪霊から解放された喜びだけでなく、主イエスの恵みと救いを体験的に知った者としての宣教の迫力があります。

     そのことは私たちにおいても変わりません。私たちはどちらを選んだらよいか、それは主イエスが、その人、その時に応じて、聖霊によって教えてくださるでしょう。伝道者に召されたらただ神の言葉に従って歩む。生活の現場へなら、礼拝から家庭、職場、学び、奉仕の場へ遣わされ、そこで喜びを持って主を証ししたいと思います。お祈りいたします。