主イエスに遣わされて生きる
2022年7月3日
アモス書7:10~15、マルコ6:1~13
関 伸子牧師
宣教への派遣は、神による御業です。それは、自分の意志や願望によるものではなく、神の召しによる派遣です。預言者アモスは、神の御声を聴いて召しを受けました。預言者でも、預言者の弟子でもなく、単なる農夫にすぎないアモスですけれども、神が彼を「取り」(アモス7:15)ました。ここでの「取る」は「選びだす」の意味ですけれども、「選ぶ」と言わずに、「取る」を用いたのは、一介の農夫を預言者として用いようとして神の強い意思を強調するためです。アモスは神にとって取られた、と強く意識していました。この自覚があるからこそ、無理解に直面しても、くじけることなく、預言活動を行えました。アモスが引き受けた働きは「天地創造の前に」(エフェソ1:4)なされた神の選びに由来します。神の子であることは恵みです。しかし、同時に要求でもあるのです。私たちは神の前で、この責任を引き受けなければならないのです。
主イエスの弟子たちは、イエスの権威を受けて遣わされます。12人というのはよく考えると奇妙です。ユダが欠けているはずだから、正確には11人であったはずです。ユダに代わる人物が選ばれるのはイエスの昇天後です。だとすると、12人という表現は人数を表すのではなく、神の民の完成である「新たなイスラエル」を指す象徴的な表現なのでしょう。それが12人と表現されたのはイエスの弟子こそ神が支配する終末を生きる「まことのイスラエル」であるからです。
宣教の現場は、実に多様な経験をすることになります。しかし、神への信頼を貫くときに、豊かな宣教の実りに導かれるのです。今日の箇所でも主イエスの細やかな配慮が見られます。7節に「そして、12人を呼び寄せ、2人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け」とありますが、「呼び寄せる」は現在形の動詞ですが、これは「過去の出来事なのに、まるで目の前で繰り広げられているかのように物語るための現在形―歴史的現在、だと思われます。次の「遣わすことにされた」は、直訳すれば「遣わすことを始めた」となり、12人の派遣の開始によってイエスの活動が新しい段階に入ったことを示しています。最後の「授ける」は未完了形の動詞ですが、これは動作の継続・反復を表しますから、権能を授ける際に、組ごとに別々に与えたことを示していると思われます。
さらに、8~9節では宣教地に向かう旅での態度を教えます。杖を持つことと履物を履くことは許されます。私たちは旅行する時、いろいろなものをいっぱい持っていきます。私も旅の準備をするとスーツケースに使わないものまで用心して入れてしまいます。しかし、主イエスは主のお与えになる力以外のものを持っていかないようにとおっしゃいました。神の御言葉をつたえて歩く弟子たちに、杖一本のほか、パンはいらないのでしょうか。お金はいらないのでしょうか、と問いたくなります。
しかし、主イエスはパン・袋・お金の携帯を禁じています。袋は安全を保証するもの、袋は喜捨を入れておくためです。8節で「お金」と訳された言葉は銅貨を意味します。金は滞在と帰路を保証するものとして期待されます。銀貨や金貨は言うに及ばず、銅貨すら持参してはならないのです。
しかし、弟子たちをひとりぼっちではなく、二人ずつおつかわしになりました。こうして、二人の弟子たちは互いに助けあい、励ましあって、主イエスの御言葉をひろめていきます。10~11節には伝道地に逗留する際の注意が語られます。家に受け入れられたら、そこにずっととどまらなければならない。より快適な待遇を求めて、家を変えることがあってはならない。伝道者は宣教に専心するべきであって、その他のことに心が揺れてはならないのです。もし、受け入れる場所がなく、使信に耳を貸さないなら、足の塵を払って証しとする。御言葉に耳を傾けようとしない所があれば、無理に争わず、静かに去ります。「足の塵を払い落す」とは、神の怒りを示しています。それは言葉ではなく、「しるし」によって、悔い改めを迫る、宣教の手段でもあるのです。
私たちは保証や予防策を求めがちです。それは、安定するためであり、また特権を享受するためでもあります。逆説的なことに、私たちの社会では、まさに福音のための働きがそのような特権を生むのです。主イエスからの呼びかけは不変のものであり、私たちを宣教の源泉とその意味に連れ戻します。
12人の宣教は悔い改めをもたらすものでした。そして、この宣教が同時に悪霊を追放し、塗油によるいやしをもたらしています。12人が遣わされたのは、キリストがそこのおられるためであり、悔い改めは神なしに生きる者がそこにおられるキリストによって立ち返らせられることであり、それは、いつでもいやしと真の慰めをもたらたします。このように、主イエスに従う人は、神さまのみわざを行います。そして、これらのことを明白にするために、一本の杖に生きることが命じられているのです。それは、強さが弱さへと転換され、弱さがその弱さに働く方のゆえに強さとなるのです。教会が主の十字架を一本の杖として、十字架を見上げながら、キリストの言葉を語り続け、キリストの御業に共に励んでいきたいと思います。お祈りします。