カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の言葉は永遠に生きる

    2022年7月10日
    エステル記4:10~5:8、使徒言行録13:13~25
    関 伸子牧師

     使徒パウロの第一回宣教旅行は、聖霊に送り出されて、アンティオキアの教会の熱い祈りに支えられて始まりました。

     「パウロとその一行は、パフォスから船出したパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった」(13節)。これまでは「バルナバとサウロ」と言われてきましたけれども、これからはパウロが一行の指導者になります。パウロの第一回伝道旅行は、アンティオキアからバルナバと共に出発し、キプロス島のパフォスを経てパンフィリア州のペルゲにまで至ります。しかし、バルナバのいとこであり、マルコと呼ばれるヨハネはエルサレムに帰って行ってしまいました。パウロに原因があったわけではないのですけれども、これからという時であり、辛い経験です。宣教は、互いに一致して協力し合ってなすことができるならば、どんなにすばらしいことかと思わされます。しかし、現実には、人間の混乱や対立、別離を通して前進していくことも多いのです。神のご計画は人間の亀裂をも用いて実現されるのではないでしょうか。

     パウロたちは、ペルゲから北上して高い海岸山脈を越えるという険しく危険な道を通って海抜1200メートル地点にあるアレクサンドロス大王の後継者が建設したピシディアの都市アンティオキアに到着しました。一行は、ここに腰を据えて伝道することになったようです。パウロたちは、いつものように、まず、「安息日に会堂に入って席に着いた」(14節)。安息日に会堂に入ると、ユダヤ人とユダヤ教徒の会衆への奨励を求められ、パウロは立ち上がって説教をしました。

     パウロは、イエス・キリストによる救いを説教する上で、イスラエルの民族と結びつく二つの点を述べています。一つは、ダビデ王のことであり、「彼の子孫から救い主が遣わされる」ことです(23節)。ダビデはエッサイの8人息子の末っ子として生まれ、牧畜、音楽、戦術、言語表現が得意な美しい少年でしたが、自分自身は貧しく、身分も低いと謙遜しています。彼は敵対するペリシテ人の英雄戦士ゴリアトを打倒した後、ねたみからイスラエル王国初代の王サウルに何度も殺されそうになりますけれども、その時も、自分は死んだ犬、一匹ののみに過ぎないと自覚していました。しかし、神はそのような者をイスラエル王国二代目の王にしました。それは、ダビデが神の心の思いをすべて実行するからです。

     ダビデの子孫から、同様にして神に愛され、神を喜ばせるイエスがこの世の救い主として誕生しますが、そのことは、神がダビデの子孫によって王国は永遠に確立されると預言者ナタンを通して約束したことの実現です。「この救いの言葉は私たちに送られました」と、26節に記されています。「送られました」と訳されている言葉は、ギリシア語で「見知らぬ土地に送りこむ」という意味です。見知らぬ地に特別に送り込むのです。ここでは神の救いの言葉が送り込まれてきた。だから今、私はここで語っているのだ、と言うのです。この救いの言葉が23節で言えば、「救い主イエス」のことだということは明らかです。

     もう一つは、このイエスの登場に先立って、洗礼者ヨハネが現れて、イスラエルの民全体に悔い改めを求めたことです。そして、自分がどういう存在であるのかを語りました。「バプテスマのヨハネが先駆者として証言」したメシア(25節)が、イエス・キリストであるということです。パウロは彼のことばを引用してこの区分を締めくくっています。「ヨハネは、イエスが来られる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『私を何者だと思っているのか。私はその方ではない。その方は私の後から来られるが、私はその方の足の履物をお脱がせする値打ちもない。』」

     人々は洗礼者ヨハネのことを救い主か何かと思っていたかもしれませんけれども、ヨハネ自身は明確に、「この私はキリストではない」と告白していました。当時、主人の履物のひもを解いて履物を脱がせるのは、その家の奴隷の仕事でした。つまり、奴隷なら、まだ主人との関係があり、主人の足に触れることもできたのです。しかし、洗礼者ヨハネは主人の足に触れて、その履物を脱がせるという価値さえ自分にはないと言うのです。要するに、洗礼者ヨハネは自分が主なるイエスの奴隷でさえなく、実に奴隷以下の価値しかないと告白し、それによってイエスの偉大さを証ししているのです。私はただ救い主を迎える準備をしているだけだ。本当は、神の民イスラエルが、神にとって異質な民であってはいけなかったのです。しかし、このヨハネも殺されました。そして、主イエスも殺された。その定めを、これからパウロは本当に厳しい、しかも鮮やかな言葉で語り始めます。
     
     キリストの証し人としては使徒のことがまず思い浮かべられます。しかし、それで証し人の系列が途絶えたのではなく、その後も続きます。今も続いています。私たちもそこに加わっています。使徒言行録続編として。私たちの後にも証し人は増え続けます。けれども、キリストの前の最後の証人であるヨハネは、自分の弟子たちに、「見よ、これこそ神の小羊」と示しました。私たちも、主イエス・キリストを示し示しながら信仰の道を共に歩んで行きましょう。お祈りします。