カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 歌が生まれる教育

    2022年6月19日
    申命記23:25~26、マルコによる福音書2:23~28  
    濵崎 孝(引退教職者)

     神さまを賛 する詩や詩的な叙述を豊かに宿す聖書、その神さまからの手紙が私どもに語りかける大切なものは、キリスト・イエスさまがなさった歌の生まれる教育、真実な愛による養育です。

     マルコによる福音書が証言する「神の子イエス・キリスト」(1章1節)―この方は、安息日について権威ある新しい教えを語った偉大な教師でした。イエスさまは本当に深い意味で、人間を人間らしく生きることが出来るようにしてくださる養育をなさったのです。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」(27節)という教えは、そういう発言がやがてあの十字架刑につながったという意味で、真に命がけで語られたものでした。そして、お弟子たちはキリストが存在をかけた愛の教育によって心を開かれ、救われ、人格を養われ、人間らしい歌を生み出す者になったのです(使徒言行録2章14~47節参照)。

     イエスさまとお弟子たちが分かち合った平和な暮らしが、ユダヤ教のファリサイ派の人たちによって破壊されました。ある安息日に、「イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」(23節)のでした。・・・・・・ると、「ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』」(24節)と咎めたのです。彼らは、麦の穂を摘む行為を律法違反の労働と判断したのでした(出エジプト記20章9~11節参照)。

     ファリサイ派の人々は、聖書の教えで隣人を縛り、信仰生活を酷く息苦しいもの、非人間的なものにしていたのです。彼らは、生活の片隅の小さな事柄にまで厳しい目を向けていきました。まるで、「楊枝で重箱の隅をほじくる」ようなことをしていたのです。しかし、キリストとお弟子たちは大胆に、大らかに、言わば「律法違反者」の生活を楽しんでいたのです。そして、そのお弟子たちの生活の質こそが事柄に相応しく、聖書の戒めの深い理解に基づいていたのでした。

     申命記23章に記されている律法は、何という大らかで仕合せな戒めでしょうか。そして、安息日についての戒めだってそうなのです。「主は安息日を祝福して、これを聖別された」のです。安息日の戒めは、当時の奴隷や寄留者という弱い立場の人たちへの思いやりを呼びかけており、家畜にも休息を与えるようにという優しい教えだったのです。「重箱の隅」ではなく、人間の生活の隅々にまで神さまの憐れみを行き渡らせる愛の戒めだったのです。

     「イエスは言われた。『ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか』」(25節)―イエスさまは、「ファリサイ派の人たち、あなたがたは聖書をどう読んでいるのか」と言われたのです(ガラテヤの信徒への手紙4章30節a参照)。「ダビデは神の家に入り、祭司たちのほかには食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(26節)・・・・・・旧約聖書のサムエル記上21章にも、ただ戒めに固く立とうとするのではなく、その与えられた状況で、どのように人間らしいものを表現するかということに心を開いた人がいたのです。ファリサイ派の人たちも尊敬していたであろうダビデ―彼は隣人を支えるために、また自らも生き抜くために、敢えて法を破ることがあったのです。そして、そのことを真実の先生であるイエスさま(マルコ14章14節参照)は、憐れみ深い父なる神さまのお心にかなうこととして肯定していたのです。

     皆さん、私どもは、キリストの十字架と復活の愛による教育という尊い恵みに出会ったのですそして、私どもはこれからの日々、殊に主日礼拝で主イエスさまの教育を受けて行くのです。私どもは、最高の生涯教育の機会を保障されたのです。イエスさまが命をかけて教えてくださった聖書の読み方は、温かい血が通うもの、弟子たちを大らかでくったくのない、人間らしい生活へ導くものでした。「自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)。十戒を与えた神さまは、神の民をエジプトの非人間的な呪縛から解き放ってくださった方です。解放者の神さまがまた束縛者になってしまうような聖書解釈は的外れなのです。

     旧約聖書のイザヤ書には、次のような預言が見出されます。「見よ、神は私の救い/私は信頼して、恐れない。/主こそ私の力、私の歌。/私の救いとなってくださった」(12章2節)。……「主こそ私の歌」(マルティン・ルターは、「私の讃美歌と訳しました)、そうです!主イエスさまの教育に与って行く皆さんの信仰生活には、人間らしい喜びや感謝の歌が生まれるのです。どうか、私どもは慈しみ深い主イエスさまの教育を生涯受け続け、み教えを喜び学ぶ信仰生活を追い求めましょう。そして、それぞれの祈りの路に、神賛美や隣人愛の歌が豊かに育まれるように、祝福していただきましょう。ヤハウェ・イルエ。