カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 愛し抜く

    2022年9月11日
    ホセア書11:1~9、マルコ12:28~34
    関 伸子牧師

     神は愛である、と聖書は書きます。ホセア書第11章9章に「私は神であり、人間ではない」(ホセア11:9)と記されています。これは神が人間的な情念を理解しつつ、人間の有限性を越える愛の徹底を述べています。神の愛は、義ゆえの怒りをも愛に変える。人間を赦し、人間を救いに導かれるのです。それゆえに、神の愛は人間にとって救いの恵みであり最高の贈り物となります。主イエスの御業と言葉は、神の愛であり、私たちへの最高の贈り物です。

     今日のマルコ福音書の個所で、律法学者の問いかけに、主イエスは「第一の掟」として、申命記第6章4~5節を引用して答えました。「イスラエルよ、聞け」で始まるこの掟は、ユダヤ人が毎日唱えていた祈りの言葉です。あなたの全霊、あなたの全知、全力をつくして、主なるあなたの神を愛しなさい」。もっと短く言えば「神への愛」です。主イエスは、神を愛するという信仰の関係と、隣人を自分のように愛するという倫理の関係とを、一枚の銀貨の裏表のように、切り離すことのできないものとして把握しました。さらに「私たちの神である主は、唯一の主である」と続けます。神は歴史を通してその愛をイスラエルに示しました。この歴史に目を向けるとき、神を「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛することができます。神がイスラエルよりも先に全力で人を愛し抜いてくださったことを思い起こすことによって、神への、このような愛が可能になります。

     イエスが「第二の掟」としたのは、レビ記第19章18節「隣人を自分のように愛しなさい」です。この掟は、自分を愛するときと同じ熱心さで人を愛することを求めています。「第一、第二」とは優劣を指すのではなく、「一つ目、二つ目」という順序を表しており、イエスは「この二つにまさる掟はほかにない」と述べることによって、他の掟を相対化しました。ここにイエスの新しさがあるといえます。

     この答えを聞いた律法学者は「おっしゃるとおり」とイエスに賛意を表します。律法学者は「神は唯一である」という言葉に申命記第4章35節の「ほかに神はない」を付け加え、さらに神への愛と隣人への愛を一つにまとめ、それが「どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています」(33節)と応じます。彼はイエスの言葉を補った上に、イエスが分けた二つの愛が表裏一体のものであると解釈しています。これはイエスの意を正しく汲んだものでした。

     主イエスが律法学者に対して、神の国は遠くないと言われたのは、それを知識として納得する点で遠くはないけれども神の国に入るには至っていないのです。律法学者は主イエスが言われたことを頭では理解したが、神を愛し隣人を愛する実践が伴っていなかったからだと考える人もいるでしょう。マルコは、「もはや、あえて質問するものはなかった」という句で締めくくっています。主は既に十字架において人間の罪を贖おうと決心しておられるのですが、そのことが起こるまで、人々は静まって待つ以外ないことが言われているのです。これに続く箇所で主イエスは、ご自分がダビデの子以上の者であることを示そうとしておられるところを見るとそう理解できます。人々が固唾を飲んで見守る中を主イエスは、ひたすら十字架への道を歩いて行かれるのです。

     本当に大切なことは、神に出会った体験、十字架との出会いなのです。十字架についてくださったイエスは、私のために死んでくださったのだということを議論や知識で納得するのではなく、人間がどんなに努力してもぬぐうことのできなかった罪が、あの十字架によってぬぐい去られたという原体験こそが大切です。それがなければ、私たちの信仰はただ議論を楽しむことに終わってしまいます。

     パウロはファリサイ派の人でしたが、主イエスに出会ったために、過去の栄誉や人間的誇りを一切かなぐり捨て、キリストにとらえられました。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と言いました。そのように言える人はさいわいです。

     律法学者は、神の国までなお一歩を残しました。主イエスを「先生」と呼ぶところに留まったからです。「洗礼」ではなく、「我が主」と呼んだ時に、この人は最後の一歩を踏み出すことになったでしょう。神の国は知識の問題ではなく、そこに入らなければ、知ることができないものです。主イエスはいつもひとつの決断を促されます。神に従うとき、漂泊に終止符を打つことができます。「神の国は近づいた」と語るイエスの言葉に身を任せるなら、神を畏れて神を愛し抜き、隣人を愛する者となる道が開かれます。私たちは、その最後の一歩を踏み出した者たちとして、神を愛し抜き、隣人を愛することをいつも覚えて生きたいと思います。お祈りいたします。