カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 恵みの中に踏み込む

    2022年9月18日
    列王記上21:1~16、ガラテヤの信徒への手紙1:1~10
    関 伸子牧師

     パウロは、ガラテヤの信徒への手紙のはじめに、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、私と共にいるきょうだい一同から、ガラテヤの諸教会へ」と、ほかの手紙とはちがった言い方で使徒である自分の紹介をしています。この言葉は私が神学生だった12年前、秋学期の礼拝において当時の校長、今橋朗牧師が語られたものでした。その時「あなたの召命はどこからきているか」と問われました。

     パウロがガラテヤを去った後、ユダヤからの侵入者たちが来て、パウロの宣べた福音は間違っていると言ったことよる混乱が教会に生じているとのニュースがパウロのもとに届きました。その問題解決のために紀元54年頃この手紙が記されました。
     
     パウロは、自分の使徒職が人間の権威者から法的制度的に受けたものではなく、神の啓示によってキリストから、(神から)与えられたことをきびしい言い方をして、戦いの手紙と言われるほどです。

     このような使徒職への招きが、「イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによる」ものであるということは、復活してパウロに衝動的に登場したイエスが神と同等の力を持つこと、このイエスを十字架という木に掛けられて呪われたイエスをその死から生き返らせた点で決定的で新鮮な力を持つことを示しています。十字架刑は極悪人に対する処刑方法ですから、神がイエスを復活させたということは、神がこの世の人々によって不義と見なされたイエスを義としたということを意味します。
     
     パウロに限らず、人は誰でも神が個々人に与えた特別な目的に従う時に、使徒とされてこの世でも聖なる者として真に生きるのです。その際、使徒とされた人は父なる神の子としての特権が与えられ、イエスの弟子となり、この世で死んだとしてもイエスと同様に永遠の命にまで招かれるのです。このようなことが実現するために、父なる神によってイエスがまず十字架上で死に招かれ、そして、死人たちの中から永遠の命へと招かれたのです。

    そのパウロがガラテアの諸教会に、父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安を祈ります。「平安」とは神との平和、人との平和、自らの心の平和を言います。これは人間が救われた状態を指しています。この救いは、キリストにある神の一方的な愛、恵みによってのみ与えられるものです。ところが、パウロは、キリストの恵みから離れて「ほかの福音」(6節)にガラテヤの諸教会の人たちが乗り換えようとしていることに驚かされました。

     10節でパウロは、「人か神か」のどちらに取り入ろうとしているのかと、自問します。信仰生活は、たしかに、キリストとの関係が深い生活です。それは、キリストが私たちを罪と死から解放してくださった生活です。とすれば、そのキリストの愛を深く知らされているはずです。キリストの愛を知れば知るほど、キリストに負うことが大きくなる。それを簡単にいれば、キリストの奴隷になった、ということなのです。キリストの奴隷になったら、自分を愛し、隣人を愛する。愛の生活は、限りない喜びと自由を与えてくれるにちがいありません。愛されていることを知っている人が、何とかして、愛を伝えたい。パウロは、キリストの奴隷であることが少しもいやではありませんでした。いやどころか、この奴隷になった愛のゆえに、まことに生きる喜びを感じていたにちがいありません。それは恵みの中に飛び込んだから分かったことです。
     
     パウロの信仰とは何か。それは恵みのみという信仰であり、エルサレム教会の人たち、いわゆる正統派と称する人たちとは違った福音理解を持っていました。そこに戦わなければならない理由がありました。

     榎本保郎牧師は「ちいろば牧師の一日一章」に大変興味深いことを書いていました。「20年30年の信仰生活を送って、なお福音を理解していない人も多いし、きょうはじめて教会へ来たのに、聖霊の働きによって(福音を)はっきりと理解する人もいる。それはちょうど空気のようなもので、吸い込みさえすればよいのである。みんな同じように神の愛を受けている。信仰そのものの本質から考えると、信仰は成長するものではない。日々新しく、神から恩寵としていただくものである」。みなさんはどう思いますか。私は、信仰は日々新しく、神からの恵みとしていただくものだ、という榎本先生のことばにはっとしました。
     
     パウロの恩寵のみ、恵みのみという思いから、神に応答して、神を愛し、隣人を愛する、恵みによって、ということが生まれるのです。いつも主の恵みを数えながら地上の歩みを全うしたいと思います。お祈りします。