カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の言葉を聞くのは誰?

    2022年9月4日
    詩編40:2~12、使徒言行録13:44~52
    関 伸子牧師

     アンティオキアの会堂で、パウロは出エジプトから始め、イエスの復活にいたる神の救いの業を説き明かしました。パウロたちがここで説いたことは、「神の恵みの下に生き続けるように」という勧めでした。自分たちにではなく、むしろ、イエスに従うことであり、イエスを通して神の恵みのもとにいることです。「恵み(カリス)」とは、神が人に対して与える無償の行為のことであり、ここでは具体的に神が会堂の人々に信仰を与えることを意味します。パウロは神の恵みによって、今の私がある」(コリント一15:10)と言い、いつも人々に「神の恵みの下に生き続ける」ために、神を仰ぐように語ります。

     一週間後には、ほとんど町中の人がパウロの話を聞きに来ます。ユダヤ教に改宗している異邦人のみならず、多くのユダヤ人もまたパウロの話に興味を持ち、もっと聞きたいと懇願しました。

     一方、その群衆を見て妬みをもったユダヤ人は、パウロの話すことに反対し(45節)、パウロとバルナバを迫害させて、その地方から追い出してしまいます(45、50節)。この世は、妬みと罵りに終始しています。「妬み(ゼーロス)」とは熱意のことであり、パウロの語る言葉に対抗しようとする熱意、妬みと言ってよいでしょう。イエスの弟子たちが喜びと聖霊に満たされていったのとは逆に、この町のユダヤ人たちは妬みに満たされていったのです。

     ここでユダヤ人は福音の本質に反対したのではありません。口ぎたなく罵って、相手を負かしてしまう。正しい理論なら、また別な論理で打ち破ることができます。妬みや反抗にあったらどうするか。まず考えなくてはならないことは、福音そのものは、どのような反抗によっても邪魔されはしないという事実です。それどころか、どんなに大きな反抗さえも、かえって福音を推し進めるのに役立つのです。パウロは牢屋に入れられた時、「私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい」(フィリピ1:12)とさえ言い、「私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人々に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです」(フィリピ1:13、14節)と語ります。

     ユダヤ人が罵りに荒れ狂う間に、異邦人はキリストに捕らえられ、神をほめたたえるに至ります。こうしてピシディアのアンティオキアに主の教会ができました。しかし、それは使徒たちの努力や意思でなったのではなく、神の御業です。

     こうして、パウロたちは「異邦人の光」として宣教の働きを担います。使徒パウロは、神の召しを受けたときから「異邦人への宣教」の使命が託されました。「地の果て」とは、パウロの時代「ローマ帝国の境界」を指していました。宣教はローマ帝国の境界に到達することを意味しました。しかし、現代において「地の果てまで」とは、世界の隅々までを意味します。それは、地理的、空間的な広がりだけでなく、国家や社会の奥深くに向かっていくことであり、福音の光がともされていないすべてが、「地の果て」となります。

     「ところが、ユダヤ人は、神を崇める貴婦人たちや町の有力者たちを唆して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の埃を払い落し、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(50~52節)。パウロとバルナバは追放されたが、弟子たちはますます喜びと聖霊に満たされたことがわかります。彼らは「足の埃を払い落し」立ち去りました。これは、主イエスに教えられたことです。

     パウロは異邦人伝道を生き抜きました。そして、イエス・キリストを受け入れないかたくなさに対しては、あえて「足の埃を払う」抵抗をも辞さないきびしさを示しました。しかし、パウロは神に言い逆らい、伝道を妨害する者に対しても、なお神の義と憐れみを信じて疑いませんでした。だから、ユダヤ人から異邦人へ、という伝道の方向転換にもかかわらず、シナゴーグとユダヤ人たちが伝道の対象から決して排除されることはありませんでした。むしろ、異邦人とユダヤ人の差別を廃し、キリストによる新しい創造、「地の果てまで」およぶすべての人のための、キリストの教会こそがパウロの祈りでした。

     神様のなさることは本当に偉大であり、また不思議なものであることを、改めて思います。これはこの後、教会の伝道において繰り返し起こった神の奇跡のわざです。私たちは、今、その恵みにあずかっています。パウロが願うように、異邦人とユダヤ人の隔ての壁を越えて、いろいろ異なる人々と共に、主が建ててくださった東小金井教会で、光の子として生きていきたいと思います。お祈りいたします。