カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリスト者として生きるとは

    2022年8月28日
    イザヤ52:13~53:6、ペトロ一 1:3~9
    臼井 正人長老

     ペトロの手紙一が書かれたのは60年代、キリスト教を最も激しく迫害したと言われているローマ皇帝ネロが統治していた時代です。ペトロは現在のトルコに寄留しているクリスチャンを励ますために、この書簡をローマから送っています。ローマ市内でも当然、激しい迫害があったことが想像できます。ペトロはガリラヤの漁師で本名をシモンと言います。ペトロは十二弟子の中のリーダーで、一番偉く信仰が強いと思いたがっていた頑固で、おっちょこちょいなところがあり、無学な普通の人でした。イエス・キリスト逮捕時、イエスの予告通り、三度、明確にイエスとの関係を否定しました。また、復活したイエスに「私を愛しているか?」と三度問われました。復活したイエスはペトロを責めることなく、愛をもって包み、改めて福音を説き明かし弟子として再召命を与え、生ける希望を与えられました。イエス・キリストの復活により、ペトロは新しい人として人生の再スタートを切れたのではないでしょうか。

     この手紙を受け取ったのは、現在のトルコに寄留していたクリスチャンでしたが、私たちの国籍は天にあり、この地上に寄留者としてしばしの間生活している者だと考えたら2000年近く前に書かれた手紙が、現在の私たちに宛てられているものと捉えられます。

     3節に「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。」と記されています。そして、4節に「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、消えることのないものを受け継ぐ者としてくださいました。」と続きます。私たちは物質的には恵まれた豊かな国に住んでいますが、「夢も希望もない」と、多くの方が自ら命を絶つという悲しい現実があります。かつては毎年3万人を超える方が自殺をしていました。2019年は1976年以降最小になったものの20,168人です。自殺者は特に中高年層の男性の方が多く7割近くの年もありましたが、この10年ほどの傾向は、男性は減少する一方、女性と小中高生層が増加しています。2000年前の苦難とは異なりますが、現在も多くの人が苦難の中にいます。苦難とまでは言わずとも、何の悩みも不安もない、という人は少ないのではないかと思います。

     私たちキリスト者は神さまの恵みにより、主イエス・キリストと出会い、8節にあるように「キリストを見たこともないのに愛してしており、今見ていないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています」という者にされました。そのようなキリスト者が第一にすべきことは、3節に記されているとおり、神さまをほめたたえることです。ほめたたえるとは賛美をすることであり、それは単に賛美歌を歌い、奏でるにとどまらず、聖書の御言葉を通して神さまと交わり、御言葉を信じてイエスを主として生活することです。それにより、年をとってもなお、希望が日々新しくされる、なぜなら、新しく生まれ変わった時に生ける望みが与えられているからです。

     更に、地上の生活では、先行きの不安を多くかかえていますが、不滅で不変の資産を父なる神さまは私たちのためにすでに天に蓄えてくださっている、というのです。

     6節以降には「今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、賞賛と栄光と誉とをもたらすのです。」と記されています。試練を受けることが神の御心であるのなら、そのしばらくの間は神の計画のもとに置かれた恵みの時であり、苦難によって鍛えられ不純物が取り除かれた本物の信仰をもつキリスト者はキリスト再臨の時、神から賞賛の言葉をいただき、本来神に属するものであってキリストに付与された栄光と誉にあずかりうる、というのです。
    5節にある「信仰によって」という言葉は、人間には理解しがたい苦難の中にあって、その苦難にもかかわらず全幅の信頼を神によせ、強い確信をもって苦難に耐え抜く力です。どのような絶望的状況にあっても、神の救いの働きを確信し、神に身を委ねてこの世を生き抜くことであり、何よりもまして人が生き生きと生きる希望の源泉として強調されています。9節には「あなたがたが信仰の目標である魂の救いをえているからです」とあります。この魂の救いの「魂」の原語は精神的肉体的あらゆる苦痛や束縛からの解放を意味するそうです。信仰の目標としての未来の救いを現在すでに受け取っている、というのです。これらのことが、私たちに宛て書かれたものである、ということをもう一度かみしめましょう。

     先日、リベラルアーツに関する講演を聞く機会がありましたが、リベラルアーツの本来の意味は「人間を自由にする技」、人間を良い意味で束縛から解放するための知識や、生きるための力を身につけるための手法をさします。キリスト者には、究極のリベラルアーツである、『聖書』があります。ヨハネによる福音書8章32節にある「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」とある通りです。

     「キリスト者として生きるとは」と題し、色々お話ししましたが、一言で申し上げれば、本日の聖書箇所の最初に記されている、神をほめたたえる、ということです。言い換えれば「この地上に寄留している間、神さまを賛美し、礼拝を続けよう」と、言うことです。「主を賛美するために民は創造された」と詩篇102編39節には記されています。

     主を賛美するために神さは私たち造られたのだから、生きる目的は主を賛美することであり、主を礼拝することであると言えます。人生いろいろなことがありますが、神さまをほめたたえ、希望と喜びをもって、信仰によって、互いに祈りあい、支えあい、生活をしましょう。そして、一人でも多くの方に、主イエス・キリストのことを宣べ伝え、希望に生きる友が増し加えられるよう、キリストに従って生きようと決心した者として共に励んで参りましょう。 お祈りします。