神に生かされるわたしたち
2023年3月26日
哀歌1:1~14、ルカによる福音書20:9~19
関 伸子牧師
ルカ福音書を読み進めながら主イエスの十字架への道を辿っています。今日の箇所の直前で、主イエスが、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」(20:8)と言われました。それは答弁を回避されたのではなく、かえって質問者に、彼ら自身の傲慢と不信実をさとらせるために強い反撃をしたものでした。今日はその続きのたとえです。
このたとえと関連して、背景にルカが考えていたであろうと思われるイザヤ書第5章1節以下のぶどう園では、ぶどう園を造るには、まず土地をよく耕し、石を取り除き、ぶどうを植え、やぐらを建て、酒ぶねを掘り、ぶどうが実るのを待ちます。良いぶどうが実らなかったという表現を通して、神に選ばれたイスラエルの民が神の意図したようには成長しなかったことが強調されています。
ルカによる福音書の「ぶどう園と農夫」のたとえのあらすじはこのようなものです。ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸し、長い旅に出た。収穫の季節になったので、その分け前を求めて、僕を遣わした。すると農夫たちは僕に危害を加え、何も与えずに送り返した。そういうことが3回続いた。そこでぶどう園の主人は、自分の愛する息子を送った。私の息子なら農夫たちも敬ってくれるだろうと思ったからです。ところが主人の期待は裏切られました。土地の所有者が死んで後継者がなければ小作人がその土地の権利を主張できることになっていたので、この農夫たちは、その息子を殺せばぶどう園は自分たちのものになると考え、彼をぶどう園の外に追い出して殺してしまった。しかし、それを知ったぶどう園の主人は戻って来て、この農夫たちをうち滅ぼし、ぶどう園をほかの人達に与えてします。
農夫たちは、おそらく、収穫の中から主人に差し出すものがあったはずです。しかしそれらをすべて、自分たちのものにしたかった。そこには言い分があったかもしれません。主人や僕たちが労苦した結果ではなくて、農夫である自分たちが汗を流し、ときには開墾するために棘で傷つき、また物陰からあらわれる獣と戦って怪我をしたかもしれません。あるいは、農夫たちは、小作人でなければどんなに良かったかと思ったかもしれません。しかし、農夫たちの身勝手な思いは、本来、そのつとめが与えられたものであり、主人が「貸して長い旅に出た」(9節)ほどに、彼らを信頼して任せていたことへの感謝の心は全く見られないのです。
すべて神さまから与えられているものによって生きることの喜びと感謝に生きて神を礼拝することの幸いは、この章に続く第21章1節以下のひとりの「生活の苦しいやもめ」(3節)の姿に表されています。すべてが神から与えられて託されているものであることを感謝して、いつでもお返しできる喜びに生きていくことを、主イエスは祝福してくださるのだと思います。
そして、イエスの語ったたとえはさらに続いています。このことのためにぶどう園は農夫たちから取り上げられて、他の人々に与えられることになるというのです。他の人々というのは、キリストを「隅の親石」にして立てられる教会とその指導者を指していることは間違いないことです。イエスは拒絶されますが、気高い石なのであり、その石が神の建物を完成する。あるいはごく早い時期の説教者たちが表現しているように、「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2:36)。イエス・キリスト、このお方は、人間が捨てた石、優れた建築家がこんなものはいらないと言って捨てた石にすぎません。しかし、それがじつは人類を支える隅のかなめ石になったのです。神は、人間の罪の傲慢さを砕く石として、十字架をお用いになるのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの有名なダビデ像は、石切り場でレオナルドが、石工が捨てた石で造ったそうです。実に神は見捨てられた石を、隅のかなめ石にしてくださる。とすれば、私たちの弱いところ、人にみられたくないような弱点、実に小さいもの、それから、神は必要なものを造り出してくれるのではないでしょうか。これはまさに驚くべき神のわざです。神さまは、人間が考えていることの逆のことをなさいます。捨てられた石が隅の親石になる。具体的な情景は分かりませんが、人間が捨てたものが人間の救いの石となる。
この後、イエスは十字架に架けられます。捨てられるのです。しかし、それこそが復活につながり、昇天、聖霊降臨につながります。真理は堅牢です。これに立つ者は世の権力者によって倒されても、決して永遠に倒れることはありません。これに反して真理を打つ者は、一時勢力を張るように見えますが、結局自滅します。神を信じて主イエスを信じる者は、世から嘲りと侮りを受ける。しかし、自ら立つところが真理の岩であることを知るために、いかなる侮辱嘲弄を受けても動揺することはないのです。これに反して、神を無視し、イエスをあざける者は、真理そのものによってさばかれ、木端微塵に砕けるでしょう。イエスのたとえにこの凛とした宣言があります。そのこと自体が、人からではなく、天より出た証拠です。私たちはイエス・キリストを信じる、まことの信仰の道を主と共に歩ませていただき、主によって生きる者でありたいと思います。祈ります。