カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスによってのぞみに生きる

    2023年3月19日
    出エジプト記34:29~35、ルカによる福音書9:28~36
    関 伸子牧師

     今日のルカ福音書は「イエスの変貌」、あるいは「山上の変貌」と呼ばれてきた箇所です。直前で、ペトロがイエスは「神からのメシア」だと告白したとき、イエスは初めて受難と復活を予告して、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)と語ります。これはフィリポ・カイザリアの地方においてのことでした。44節には「人の子は人々の手に渡されようとしている」とあります。つまり、受難予告にはさまれ、イエスの姿が変わることが述べられているのです。

     この受難予告が弟子の間に少なからぬ不安と混乱とをもたらしたことは想像に難くありません。なぜなら、イエスの弟子たちも、キリストを地上的な栄光に満ちた救い主として思い描くユダヤ人一般の考えからまだ抜け出せずにいたからです。“排斥され殺されるキリスト”は、弟子たちにとっても、受け入れがたいキリスト像だったのです。

     主イエスは祈るために三人の弟子を連れて山に登ります。イエスが祈っておられると、「イエスの顔の様子が変わり、衣は白く輝いた」とあります。イエスの姿が光り輝いた。このことから思い出すことは、旧約聖書のモーセです。モーセもシナイ山で律法の板を神から授かり、山から下りてきたとき、顔に光を放っていたと記されています(出エジプト34:35)。神と出会い、神の言葉を授かったモーセの顔は、神の威光に触れて光を放ちました。旧約聖書の代表者たち―モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表です。この二人が登場してイエスと語り合うということは、旧約聖書に記されている救いの約束が、イエスにバトンタッチされるということを表しています。

    しかも、ルカ福音書は話の内容を明らかにしています。それは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて」(9:31)でした。つまり、イエスの十字架の死です。神は十字架の道を歩むイエスと共におられる。この道で間違いない。この道を行けということです。

    ここで目を引く言葉は「最後」(31節)と訳された語です。これは、出エジプトを暗示するエクソドスです。この語はエジプト脱出がエクソドスと呼ばれたように、”より良い状態への出発”をもともとは意味していましたが、婉曲的に使われる

    と”死”をも意味しました。ここでは、まず、エルサレムでのイエスの”死”を意味しますが、同時に、神の国への”出発”をも表しているのでしょう。主イエスのいのちは十字架上で惨めに尽き果てるのではなく、モーセやエリヤと同様に、天に昇って生き続けるからです。これは、いのち、復活にいたるための出発です。

     しかし、弟子たちはそのとき、「眠りこけていた」。弟子たちは眠気のためにイエスがモーセ、エリヤと交わした会話の内容はわかりませんでした。しかし、栄光に満ちたイエスの姿をはっきりと見た。ペトロは、二人の人が立ち去ろうとしたとき、「仮小屋を三つ建てましょう」と提案します。私たち人間は、主イエスを理解可能なものにしたり、普段の生活とは別世界の高いところに閉じ込めたりしようとします。ペトロの言葉にはそういう思いが見て取れます。

     その時、雲(神の臨在)が弟子たちを包みました。ペトロのこの提案に答えたのは、雲の中から聞こえた声です。「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」。この声は父なる神からのものであり、この言葉はイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に天から聞こえたものとほぼ同じです。申命記第18章15節と関連があります。「あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」。

     神の子が与えられた今、神の言葉に聞き入ることこそ必要なことなのです。その声がしたとき、弟子の前に立っていたのはただイエスだけでした。「これに聞け」とはイエスに聞くということです。弟子たちは、モーセやエリヤの預言を実現する真の預言者イエス自身に聞き従うべきなのです。

     神の国は私たちに既に与えられています。しかし、これには「脱出」するという前提が必要です。つまり、神と隣人につながって生きることを妨げるあらゆるものからの出発。この出発には痛ましく避けがたい側面が伴います。ペトロはそれから逃れたかった。現在の方に魅力を感じていたからです(33節)。

     しかし、イエスの十字架の死の時は「あの人のことは知らない」と言って逃げ出した弟子たちが、聖霊を受けてエルサレムから全世界へと遣わされます。その点について、私たちも同じように、聖霊を受け、「これは私の子、選ばれた者」と呼ばれる者たちです。そして神は「これに聞け」と言われます。私たちは、福音の使者として、それぞれが十字架を負ってイエスに従って、神の子としてこの地上を歩み続けたいと願います。祈ります。