カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 自分を救いわないイエス

    2023年4月2日
    ゼカリヤ書9:9~10、ルカによる福音書23:32~43
    関 伸子牧師

     本日は棕櫚の主日の礼拝をささげています。イエスさまのエルサレム入城の日。イエス・キリストが十字架にかかり、亡くなって、三日後に復活したイースターの出来事の一週間前に、エルサレムへ入城した記念の日です。ルカ福音書第23章はイエスがピラトから尋問される場面から始まります。イエスは、王を自称したかどで死刑判決を受けます。イエスを告発する者たちはそのように断言し、イエス自身もピラトの前でそのように認めます。イエスの十字架の上部には「これはユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられていました。

     かつてイエスの説教を聞いていた民衆は、十字架刑に連行される主イエスの跡を嘆き悲しみながら従いました。そして、民は、当惑して、おそらく落胆して、十字架につけられたこの御方を見つめていたでしょう。平行箇所のマタイ福音書第27章39節とマルコ福音書第15章29節では、通行人が十字架のイエスを罵りますが、ルカでは民衆は立って見つめています。彼らはイエスの死を見届けた後、胸を打ちながら帰って行きます(23:48)。

     イエスが十字架につけられて死ぬ意味を、真実にわかっている人はここにはいないのです。「人々はイエスを十字架につけた」。この「人々」とはシモンに十字架をかつがせ、イエスの服を分け合った「人々」ですけれども、テキストを少しさかのぼれば13節の「祭司長たちと議員たちと民衆」に行きつきます。しかし十字架につけたのはこの人たちだけではなかったでしょう。イエスを十字架に追いやる連鎖に最初に手を染めたのはユダでした。彼から始まって、ユダヤの宗教家たち、政治家たち、民衆、異邦人ピラトとその兵士たちと、いわばすべての人間がその鎖の中に加わり、その手を汚したのです。

     悪人たちと共に始末されるイエスは、当時の権力者たちや彼らを取り巻く群衆から悪人と同様の人物と見なされていたのです。囚人は刑の確定後にむち打たれ(マルコ15:15)、十字架の横木を背負わされて刑場に向かい、そこで横木に両腕を釘や縄で固定されます。

     この出来事を「民衆は立って見つめていた」(35節)。ただ高見の見物人もいたでしょう。また、心に悲しみを覚えつつも、手をこまねいて見ているほか仕方のなかった人もいたでしょう。しかし、ともかく、人々は見ていたのです。

     十字架のイエスを最初にあざ笑うのは議員たちです。彼らの言葉を直訳すると、「もし彼がメシアなら、彼は彼自身を救え」となります。目の前のイエスを三人称で「彼」と呼ぶのは、十字架につけられたイエスはもはや直接語りかける価値のない存在だからです。次に兵士たちが登場して、当時一般民衆の飲み物であった「酸いぶどう酒」をイエスに差し出します。安物の酒を「ユダヤ人の王」に差し出すことによってイエスを侮辱しているのです。ローマ皇帝の権威を冒してユダヤ人の王と自称したことが、処刑に相当する罪とされたのです。続いて、十字架につけられた犯罪人の一人がイエスをののしります。

     十字架上でイエスの脇にいる二人の犯罪人は対照的です。一人は、「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ」とイエスを罵ります(23:39)。カイザルだけが王だと考えている者の、イエスに対する軽蔑のあざけりです。これに対してもう一人の犯罪人はその男をたしなめています。この人は、十字架のイエスのことばを聞き、その態度を見ているうちに変えられたのです。その知識は不十分であったかもしれませんが、イエス・キリストによって神の国が到来していることを信じ、イエスには自分たちのような罪がないことを証言したのです。そのことは、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」(42節)という懇願の中に表されています。彼が見た十字架のイエスは、罪人とともに生きるメシアです。

     これに対して、イエスは「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(23:43)と言われました。イエスの返事は、遠い将来ではなく、今、直にイエスとともにこのパラダイスに入った、と告げられたのです。

     イエスは、十字架から降りようとはしませんでした。降りられなかったのではありません。十字架に神の意志を見ていたので、神との関わりの中で王であるイエスは降りてくることができないのです。こうして、すべての人の罪が神によって赦されたことが宣告されています。イエスはこの救いを与えるために、神に選ばれ、神の国の王として使わされたのです。

    私たちキリスト者も神に選ばれ、福音を信じた、羊飼い、やもめ、罪人ではないでしょうか。十字架を見つめる私たちは、やがてそこを突き抜けて、神の救いの中に自分を発見するでしょう。そして、感謝してイエス・キリストを通して救いが与えられることを証ししていきたいと思います。祈ります。