走り寄る伝道者
2023年6月25日
エゼキエル書34:1~6、使徒言行録8:26~38
関 伸子牧師
かつて、主の天使は牢屋の戸を開けて、閉じ込められていた使徒たちを連れ出したことがありました(使徒5:18~19)。天使の言動は、主なる神の言動そのものとして必ず実現するものであり、フィリポも天使の言葉に従います。
「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道を行け』と言った。そこは寂しい道である」(26節)。フィリポはエルサレムからガザへ下る「寂しい道」に遣わされました。サマリアでの素晴らしい伝道の成果の後、主の使いがフィリポに命じたことは、一人の人のところに行くことでした。
その道を、エチオピアの女王カンダケに仕える宦官が通っていました。「カンダケ」とは、女王の称号です。ヘブライ語では、エチオピア(「浅黒い顔をした」という意味)はクシュと呼ばれます(エレミヤ13:23)。この地は当時、地の果てと考えらえていました。「宦官」とは、「権力」を持った人のことであり、「管理する」とは、その「上に」(直訳)あるということです。つまり、この宦官は女王に下にあって、女王の財産の上にある権力者です。宦官はエルサレムに礼拝に来て帰る途中でした。彼は主なる神を信じていました。しかし律法によると、彼のような者、つまり、「睾丸の潰れた者、陰茎の切り取られた者は、主の会衆に加わることはできない」(申命記23:2)。彼は自分が異邦人であり宦官でもあったので、神の祝福から遠いと思っていたことでしょう。その心境は、彼が通っていた「寂しい道」という言葉が象徴しているように思います。
しかし、この寂しい道で、フィリポは一人のエチオピア人に出会います。聖霊と知恵と信仰に満ちていたフィリポは、エチオピアの宦官に丁重に語りかけました。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と、道案内してくれる御者がいないのに、どのようにして自分は出発できるでしょうかとフィリポにユーモアを語ったと考えられます。
宦官が朗読していたのは、イザヤ書第53章からのものです。そこでは屠り場にひかれて行っても口を開かない羊のような救い主について預言されています。羊はイスラエルの民にとって貴重な財産であり、人々はその乳を飲み、肉を食べ、毛で復を創り、皮を革袋や天幕の覆いにし、角を笛や聖油入れにしました。また、羊はささげ物としても重要な家畜でした。このイザヤ書の引用箇所は、イスラエルの民の直接の経験に基づくものです。イエスは十字架にかけられるためにひかれて行っても、口を開かず、殺されるにまかせられた。そのような救い主が本当に現れるなどと、誰が信じたでしょうか。主が歩まれた道は誰もが避けたがる「寂しい道」でした。
「フィリポは口を開き」(35節)の「口を開き」は、イエスが山上の説教を始められた時のように何か大切なことを語り始めるときに用いられる手法です。その聖書の箇所は、ほかでもなく、イエス・キリストの十字架の苦難を指し示している預言の箇所なのです。苦難の僕として歩む姿がここに描かれています。フィリポは、イエスがなされるがままに卑しめられて、十字架上でその命を取りされましたが、その後に復活し、そうして自分たちにも永遠の生が準備されたという福音を説いたのでしょう。
「フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた」(38節)。この頃の洗礼式というのは、水の中に入って行われました。今日でもバプテスト教会で行われているような、全身が水に入るかたちで行われたのです。こうして、二人は水の中に下りて行き、フィリポは宦官に洗礼を授けました。おそらく、フィリポは「イエス・キリスト」の名前によって洗礼を授けたのでしょう。
「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った」。フィリポが宦官に洗礼を授けると、主の霊がフィリポに別の場所で使命を遂行させるために、彼を連れ去りました。宦官がフィリポを見なくなったのは、宦官自身が「その道」を喜びに満ちて進んで行ったからです。そして何よりも大切なことは、フィリポはこのエチオピア人の救いのために、神の霊に導かれるままに、彼に走り寄ったことです。
教会の伝道というのは、一所懸命に計画を立ててやるべきものであるかもしれませんけれども、同時に、いつも覚えておきたいこととして、伝道は人間の計画によって作られていくものではなくて、むしろ神がなさるものであり、フィリポが馬車を追って一所懸命に走ったように、神の霊に促されて、走って、どこへでも行くものであることを思わされます。寂しいところであっても、どこへでも行く。そのような歩みであるし、そのようにして、思いがけない恵みにあずかる。その体験を自らしながら、このみ言葉を読むことができ、私自身も喜びにあふれています。みなさんと共に宣教の旅を続けていきたいと願います。祈ります。