カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • さんびする教会

    2023年7月2日
    ルツ記1:1~5,19~22 使徒言行録11:4~18       
    関 伸子牧師

     異邦人であるコルネリウス一家にペトロが洗礼を授けたということが使徒言行録第10章に書かれています。このことをきっかけにして、福音は、ユダヤ人以外の人々にも宣べ伝えられ、やがて世界中へと広がっていくことになります。使徒言行録の著者ルカは、この出来事は人間が判断して行ったことではなく、聖霊によって導かれた神の業であると伝えます。

    ユダヤ人から見ると、異邦人は捨てられた民であり、神の救いからもれている人たちです。もし彼らに救いがあるとするならば、まずユダヤ人になり、ユダヤ人の律法を守らなければなりません。そう考えていたユダヤ人にとって、異邦人が異邦人のままで神の言葉を受け入れ、聖霊が彼らに下ったということは、あってはならないことでした。しかし、そういうことが起こったのです。

     ペトロが天から下りて来た入れ物の中に見た物は、四つ足の動物、野獣、地を這う生き物、天を飛ぶ鳥であり、これらすべては神が天地万物の創造時に祝福して発生させたものです。「そして、『ペトロ、身を起こし、屠って食べなさい』という声を聞きましたが、私は言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない』と再び天から声がかえって来ました。こういうことが三度あって、全部の物がまた天に引き上げられました」(7~10節)。ペトロは、「主よ、とんでもありません」という自分の言葉をここで、汚れた物や清くない物を食べて、のどに通したことがないだけでなく、口に入れたことさえないと強調しています。すると、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と神の二度目の言葉を聞きます。「こういうことが三度あって」とあります。聖書において三という数字は、確実性を意味していますから、神は天から確かに自らがすべての生き物を清めたということを意味します。神は自由にみわざをなされます。私たちはそのみわざに従うのであり、そこに信仰があります。

     「ちょうどその時、カイサリアから私のところに差し向けられた三人の人が、私たちのいた家に着きました」(11節)。コルネリウスによってカイサリアからペトロのところに遣わされた三人とは、二人の召使と一人の兵士であり(使徒10:7)、異邦人である彼らは、ペトロのいた家に着くと、その家の前で立って(「門口に立ち」)いました。この三人の異邦人たちが異邦人たちと交際をしないユダヤ人たちの習慣を尊重していたようです。

     キリストは今も働いておられます。事実、人間を変え、悪しき者を善き者とし、人々に神の霊を与えます。ですから、キリスト者の務めは、その信仰について語ることではなくて、証人になって事実をありのままに紹介することが大切です。その人の言葉が行為によって証明されるとき、世間の人々は、キリスト者と論争するのは無駄だと悟るのです。

     「こうして、主イエス・キリストを信じた私たちにあたえてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか」(17節)。神のなさったことをそのまま認めるべきではないか、というペトロの論理です。キリスト者の信仰は、神が起こされた出来事に根差しています。こうして、救いに入った異邦人が神を賞賛していたのと同様に、異邦人も永遠の命に至る回心をしたと聞いたユダヤ人たちも神を賞賛しました。神を賛美することにおいても、ユダヤ人たちと異邦人たちは一つにされたのです。

     「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を崇めた」(18節)。とても良い言葉だと私は思います。不安がなくなったということでしょう。平和が支配したということでしょう。コルネリウスたちを受け入れたということでしょう。このように、ペトロが遭遇した出来事は、繰り返して書かなければならないほど重要で決定的な意味を持った出来事でした。

     神の救いのみわざを、ここで受け入れたのです。受け入れざるを得なかった。しかし、喜びと感謝とをもって、賛美の歌を歌って、これを受け入れた。すばらしい教会の喜びがここに語られています。今や非難は、神へのさんびと変わりました。私たちも種々雑多ではあるけれど、神をさんびする心をひとつにして信仰の歩みを続けて行きたいと思います。お祈りをいたします。