カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 居眠りして生き返る

    2023年7月9日
    詩編35:1~10、使徒言行録20:1~12
    関 伸子牧師

     3年に渡るエフェソでの伝道に一応のピリオドを打ったパウロは、マケドニアを経てギリシアに来ました。「そこで三カ月を過ごした」(3節)。第19章21節で、パウロは「ローマも見なくてはならない」と語りました。これから自分の旅行の最終目的はローマであると見定めてコリントに滞在したときに、ローマの信徒への手紙を執筆しました。そのことを思うだけで、「そこで三カ月を過ごした」と記されている言葉の重みを感じます。

     第18章にすでに、コリントの町でユダヤの人びとのパウロに対する敵意が殺意に変わっていたことが記されていました。いつ殺されるか分からない。このときは幸いにして、その危険を察して、船に乗らないで避けることができました。そういうところを通り抜けてきたパウロが、あのギリシアの町に行くきっかけを与えられた。霊の幻を見たコリントの港にまできて、そこに生まれている小さな教会の人びととまずパンを裂いた。私たちが言う聖餐を祝ったのです。十字架の道を思い起こし、パウロは話をした。ここにもキリストの教会の主の日の礼拝の原型があります。

     ここにいくつもの地名やひとの名前が出てきます。かつて、パウロが伝道をしたベレアの人々は御言葉をとても熱心に受け入れ、日ごとに聖書を調べていました。また、テサロニケでパウロは、イエスこそ救い主キリストであることを説いていました。ピロの子ソパトロやアリスタルコとセクンドは、そのような時にキリスト者となった人々かもしれません。パウロは第一回伝道旅行でも第二回伝道旅行でもデルベやリストラを訪れ、リストラではテモテに会います。アジア人のティキコはパウロの忠実な弟子でありトロフィモは以前からパウロに同行しています。これらの人々は各地域の教会の代表者であり、教会がいかに大きく成長しているかを示しています。また、彼らは各教会で集めた献金を携えていたでしょう。

     フィリピからこの使徒言行録の著者ルカを含む一行は船出し、トロアスで一週間滞在しました。トロアスはパウロのマケドニア伝道の出発点となるほど、パウロの伝道にとって重要な拠点のひとつでした。「週の初めの日」(7節)、それは、安息日の終わる日没以後の日、つまり、日曜日のことです。この記述はイエスの弟子たちが日曜日の夜に礼拝をささげていたことを示す最初の言及です。パウロがずっと話を続けています。

    そこに、眠りこけて3階から転落した青年がいました。エウティコ(「幸運な人」という意味)という名の若者が窓に腰掛けていました。部屋には多くの人々がいたのでしょう。そして、彼らの集まっていた上の部屋にはかなりの灯がついていたことから、部屋は酸欠状態だったのでしょう。説教中に眠ってしまうとは、なんという不心得者だと思う人があるかもしれませんが私はそうは思いません。

     使徒言行録の著者は「もう死んでいた」と報告しています。いろいろな解釈があります。人びとが見るところではもう死んでいたけれども、本当は「まだ生きている」とあるように、「死んではいないよ、まだ息はしているよ」とパウロが言ったのだと読む人もあります。しかし、そう考えないで、「あなたがたは死んでしまったとみているかもしれないけれども、神はこの青年がまだ生きているとご覧になっている。見なさい。この青年は起き上がる」、そのように言ったと考えることもできます。

     このとき、パウロの行動について細かい報告がされています。「降りて行き」「彼の上にかがみ込み」「抱きかかえて行った」と。死んだエウティコに対して、愛情のこもった丁寧な接し方です。パウロはエウティコを信仰の角度からよく調べ、本当に死んでいるかを、自分の目で確かめたのです。そして確信をもってパウロは言った。「騒ぐな。まだ生きている」(10節)と。

     パウロのこのような行為は、紀元前9世紀の来たイスラエル王国の預言者であるエリヤやエリシャが、死んだ子どもの上にかがみこんで生き返らせた出来事を想起させます。医者ルカでさえ「もう死んでいた」(9節)とする絶望的な状況の中でも「まだいのちがあります」と言い、「望みえない時に望みを抱いて信じ』たパウロ。これはまさに、息絶えた者にいのちをあたえていくパウロの伝道を象徴する出来事でした。

     「人々は生き返った若者を連れて帰り、大いに慰められた」(12節)。これからまだ長い人生が控えている若者の蘇生を実現した神の深い愛を人々は喜んだのです。悲しみになるか、喜びになるかは紙一重です。しかし、信仰には、どんな悲しみも、大きな喜びに変える力があることを覚えていたいと思います。ここにキリストの教会の姿があります。闇のなかで、しかし、あそこには灯火が燃えている。そこには、死に対する恐れではなくて、いのちが支配している。いのちが勝利している。私たちもまた、その光の家の教会員であることができることを喜ぶ者たちでありたいと思います。お祈りをいたします。