カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 思い切り泣ける場所がここに

    2023年7月16日
    詩編56:2~9、ルカによる福音書7:36~50
    関 伸子牧師

     主イエスはよく食事をなさいました。本当に食事好きであったようで、この第7章のすぐ前、34節のところでは、「大食漢で大酒飲みだ」と人びとに言われたらしいのです。こういう噂が生ずる根拠があったに違いありません。ここでは、ファリサイ派の男、後にシモンと主イエスに呼ばれている人の家に主イエスが招かれました。当時の食事というのは面白いことに、どうも横になって食事をしたらしいのです。

     そこに一人の女の人が入って来ました。そしてまっすぐに、主イエスの足のところに行った。主イエスの足を見つけて、その足元で涙を流した。ここにも涙がありました。涙がポタポタ落ちて足が濡れるのです。私は涙を流してもポタポタ落ちるほどの涙というのはそんなには流しません。頬を伝って落ちますけれども、それを、髪の毛を振りほどいて、その長い髪の毛で主イエスの足をぬぐい、それに香油を注いだのです。匂い油は一種の化粧水として使ったり、あるいは人の死体を葬る時にも使ったものです。

     一体この女は誰なのでしょう。ここには、37節に「この町に一人の罪深い女がいた」とだけ記されています。「罪の女」と訳されることもあります。どうやら性的な生活で過ちがあったのではないかと言われてもいます。何の罪を犯したかということに、ルカはあまり興味を持っていません。むしろ、この女が「罪の女」という名前を持っていたということです。ということは、町に出ると人びとが「ほら、罪の女が歩いている」と言ったかも知れません。しかし、ルカが書いていることで大事なことは、この女が泣いていたということです。しかも、この女の涙が何であったかということを、主イエスご自身が理解してくだり、「この女は私を愛してくれた」、とおっしゃいました。この女は多く私を愛している。

     そのことを、主イエスはあらためてファリサイ派の人との話で、はっきり取り上げておられます。「シモン」とファリサイ派の男をお呼びになりながら、シモンに借金取りの話をなさっています。ある金貸しがいて、その金貸しから二人の借財者が金を借りていて、一人は500デナリ、もう一人は50デナリ。デナリとは一日の給料と考えて良いようですけれども、とにかく10倍の差があるということは、これを読んですぐ分かります。しかしこの譬え話の中で、42節のところに、「金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」とあります。この「帳消しにした」という言葉はいろいろな翻訳があります。この二人に「借財を恵んでやった」と訳しているものもあります。「恵みを与えてくれた」、その恵みによって借財を許されたのです。

     今、こういう話を聞いて、みなさんは心の中で何を考えておられるでしょうか。借財。借金。お金の話のようですけれども、お金の話に終わりません。罪って何でしょう。イエスさまは言われます。心を尽くして神を愛しなさい。自分を愛する、それと同じように隣人を愛しなさい。だけども、私も残念ながら、生まれた時から主イエスのこの戒めを守ることができません。神さまを愛することができず、自分を愛すことが出来なかった。隣人をイエスが望まれるように、神がお望みになるように愛することができない。愛に挫折している。そのために惨めになっている。それが罪の人間の姿です。私たちもこの罪の女の仲間だ、そういう事だと思います。

     教会というのは不思議なもので、礼拝堂の中にも外にもありますが、十字架を教会のシンボルにしています。十字架とは死刑台です。刑具を飾りにしている、刑具をシンボルマークにしているというのは驚くべきことです。世界中に十字架が立っています。本当はここに架けられるべき私であったのに、そこに架けられたイエス・キリストが殺された。それで私たちは死なないですんでいるのです。

     主がそこにいてくださるから、泣ける、涙することができるのです。その主が罪をお赦しくださるからこそ、涙するのです。そして、イエスは、それは私を愛する涙だ、と言われました。救いが愛を生むと同時に、愛が救いを確実にします。この相互関係に人を包み込むのが、主イエスとの出会いにおいて起こるのです。同席の人たちが、罪を赦すなんてこんなことができるこの人は、いったい誰だとつぶやいている中で、いちばん最後に主イエスはこの女に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。この「安心して行きなさい」というのは、一種の意訳です。直訳すると、「平安の中へと行きなさい」というのです。罪人としてではなく、神の子として死ねる平安です。その平安の中に向かって歩いて行けと、主イエスは言われました。その主イエスの言葉をもって、安心して、新しい一週間の旅立ちを始めましょう。お祈りをいたします。