キリストにあって受け入れる
2023年10月1日
詩82:1~8、フィレモン1~25
関 伸子牧師
フィレモンへの手紙は、パウロの数多い手紙の中で、最も短いものです。宛先はフィレモンと彼の家の教会ですけれども、内容的にはフィレモン個人に対する要望を記したきわめて個人的な手紙です。しかも、その要望とは、オネシモという名のただ一人の人、しかも当時、人間としての権利も価値も全く認められなかった逃亡奴隷を主人に返すという、異例な出来事にあって、このキリスト・イエスの僕パウロが、どのように繊細な注意と配慮をしているか、その信仰からにじみ出る人間愛を見ることができる文章に感動します。パウロは獄中からこの手紙を書きました。パウロの獄中生活がきっかけとなってオネシモはパウロを知るようになったようです。
あいさつと祈りと感謝のことばを述べた後に、パウロは、手紙の趣旨であるオネシモに関する懇願をするために筆を進めます。11節から14節までには、パウロが見たオネシモの姿が描かれています。「彼は、かつてはあなたにとって役に立たない者でしたが」、とあります。オネシモは盗みを働き、おまけに逃亡した。しかし福音のすばらしさが、その彼を「役に立つ者(オネシモ)」に変えたのです。パウロは彼を、「獄中で生んだ私の子オネシモ」(10節)、果ては「私の心そのもの」(12節)と呼んで、「今は、あなたにも私にも役立つ者となっています」(11節)と推薦しています。オネシモの姿は、福音によって変えていただいた私たち自身の姿と重なります。
パウロは、オネシモが犯した過去の不幸な出来事を、神と永遠の角度から見ています。人の目から見れば、自分で勝手にフィレモンのもとを離れたオネシモも、神の側から見ると、神によって「離された」ことが分かります。
いよいよ、フィレモンに見てほしい現在のオネシモが語られます。それは「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです」(16節)。だれからも顧みられない奴隷オネシモに心血を注ぎ、これからの生涯への配慮をなし、やがて監督オネシモへと育てていきました。新しくされたオネシモに対して、パウロは主にある兄弟として愛を示しています。これは宣教の姿勢を私たちに示していると思います。
「ですから、あなたが私を仲間と見なしてくれるなら、オネシモを私と思って迎え入れてください」(17節)。こうパウロが述べるのは、パウロにとってオネシモは霊的な「わが子」だからです。これは、一人の魂のために働く牧師の愛の心の現れです。さらには大牧者、主イエスの心でもあります。オネシモには彼一人ではとても払いきれないほどの、フィレモンに対する負債があるに違いありません。パウロはそこまで考えています。
18節でオネシモが盗んだものを、パウロは一切「盗み」という言葉を使わずに表現していることに注目したいと思います。それは「借り」であると言うのです。そしてそれは、「私の借り」としてつけておいてくれと言い、「あなたが自分を、私に負うていることは、言わないでおきます」と。ここには罪の赦しがある。また相手の善意を信頼する信仰がある。
この手紙を読む時、私たちは、パウロという人の人柄が面前に表れてくるような具体的な感動を覚えます。パウロは一切の地上の身分、過去にとらわらず、すべての人をキリストにあって受け入れます。パウロは、「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです」(コリント一9:19)と書いています。この手紙のどこにも、「教師」、「弟子」、「使徒」という言葉は見当たりません。キリストにあって、オネシモの兄弟、友人です。もちろん、フィレモンもまた、その友人、兄弟です。
この手紙のもつ意味は、一人の奴隷の解放に役だったということだけではなく、その後の教会の奴隷に対する態度や理解に大きな変化を与えたということでしょう。人間の中にある差別や偏見は、一朝一夕にとり除かれるものではありません。しかし、当時、その人間性をほとんど認められず、家畜や道具のように扱われていた奴隷、しかも逃亡し、周囲の者たちから「無益な者」とさげすまれていた一人の奴隷のために、パウロがこんなにも親身になって世話をし、必死に執り成しをした。この事実のもつ意味は大きいのです。パウロは自らの真摯な生き方を通して、自らへり下り、僕として十字架の道を歩まれた主イエス・キリストを証ししているのです。
私たち自身、罪の奴隷であったのに、主の執り成しと贖いの恵みによって救われ、自由の身とされた者たちです。あるいは、真実の自由を求めて礼拝を続けている方たちがあります。私たちは主の恵みにより、真実に自由な者として生きることを赦されている。このことを感謝しつつ、その恵みに応えて他者に仕え、他者と共に歩むものでありたいと思います。お祈りをいたします。