カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 喜びをもって歩む

    2023年10月15日
    創世記6:5~8、フィリピの信徒への手紙1:1~11
    関 伸子牧師

     今日はキリスト・イエスの使徒パウロがフィリピの教会にあて手紙をみなさんとご一緒に読みます。この手紙はパウロが牢獄から書いたものです。福音のため、キリスト信仰のゆえに捕らえられたのです。パウロは第二伝道旅行と第三伝道旅行の際、フィリピに渡りました。

     みなさんは手紙を書く時、何から始めますか。時候のあいさつから始める人もいるでしょう。また自分の家族の状況、あるいは相手の家の人びとの様子を聞く問いから始める人もいるでしょう。しかし、今、パウロはいつものような挨拶を書きます。「キリスト・イエスの僕パウロとテモテから」。この「僕」というのは「奴隷」という意味の言葉です。キリスト・イエスの奴隷というのは、キリスト・イエスによって強制されたということではなくて、もし、強制されたと言うならば、キリスト・イエスから受けた愛によって、キリスト・イエスから恵みを受けたというその恵みによって、ということです。

     パウロはフィリピ教会に感謝しています。それは、彼らが「福音にあずかっている」からです。伝道者にとって、信徒の顔が輝いているのを見るくらいうれしいことはありません。福音にあずかるとは、イエスとの交わりにあずかる、恵みをいただくということです。イエスが私のために十字架についてくださったことが慰めになり、力、喜びとなっていくことなのです。

    4節から6節では、フィリピの信徒を思い出すたびに、「いつも喜びをもって祈っている」とパウロは述べています。この手紙はパウロが獄中で書いたものです。しかも殉教を目前にして、緊迫した状態にありました。それにもかかわらず、この手紙には「喜び」という言葉が多く使われています。ここに、読者が大きな感動を受ける理由があります。

    パウロの心に喜びがあり、感謝し祈ることができるのは、フィリピの信徒がキリストへの信仰に最初からしっかりと踏みとどまっているからであり、神がそれを完成させると確信しているからです。しかし、フィリピの教会に何の問題もなかったわけではありません。教会の有力な婦人たちの間に争いがあり、異端の教えに影響される心配もありました。「キリストの日には純粋で責められるところのない者となり」(10節)と書かれているのは、フィリピの教会にも、いまだ不完全なところがあったということが暗示されています。

     けれども、「あなたがたの間で善い業を初められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています」(6節)と言われています。主が不完全な者のためにこそ、十字架による贖いの御業を成し遂げてくださるのです。

     8節ではフィリピの人々へのパウロの愛が力説されています。彼はキリスト・イエスの愛の心でフィリピの人々に接しているけれどもそれは神が証ししてくださることでもある、と主張します。

     9節から11節で、フィリピの信徒のための二つの祈りが明らかにされています。「本当に重要なことを見分けることができる」というのは、「判別する」と訳せる言葉です。はじめは、鉱石の中に、どれだけ純粋に鉱物が入っているかということを見分けるということです。私たちが、人を愛することによって、私たちは、そのように、本物を見分けることができるようになるということなのです。真の愛は、何が嘘であるか、何が本物であるかということを、見分けることができるはずです。

     私たちは、このように読んできて、ここに一人の伝道者が、フィリピの教会の人びとのために祈っている祈りの内容が初めて明らかになるのです。このように祈って、フィリピの人々の教会の中に、本当の愛が、教会全体に増し加わって、それによって、この教会の、終わりの日における、この救いが全うされるようにということです。

     そのような深い知識と、鋭い感覚と同時に、愛が結びつくというのは、どこに一番よく表れているでしょうか。言うまでもなく、主イエス・キリストの十字架です。人間が罪人であり、神につくられたものであり、救われなければならないことを、十字架ほどに明らかに示してくれるものはないのです。それと同時に、その愛は、キリストが自分のようなつまらない人間、罪人のために、救いの業をなし、十字架に死んでくださったことを知ることによって、キリストがどんなに人を求めておられるか、ということを知るのです。キリストの心をもってフィリピの人々を愛しているパウロの言葉に励まされて、私たちは、まわりの状況や私的事情に惑わされて、本当のものを見失わないようにしたいと思います。パウロのように心に喜びをもって歩んで行きたいと思います。お祈りをいたします。