カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 福音の急所

    2023年10月29日
    詩編第90編13~17節、マタイによる福音書第22章34~46節
    さがみ野教会 宮井 岳彦牧師

     「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか。」
     私たちは今主イエスの御前で、この御方を礼拝しています。その私たちに主ご自身が問うておられます。この問いを。日曜日の朝が来て、身支度をし、私たちが礼拝への道を上っていくのは、この主イエスの問の前に立つためです。「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか。」
     ここで主イエスは「あなたがたはメシアのことをどう思うか」と問うておられます。新約聖書が書かれたのはギリシア語という言語です。これを見てみると、メシアと翻訳されているところには、ギリシア語で「キリスト」と発音する単語が書かれています。この「キリスト」という言葉はヘブル語では「メシア」という。そのヘブル語の方を日本語に音訳している。昔の口語訳では「キリスト」とギリシア語の方の音を伝えていましたが、変わりました。なぜか。
     主イエスがここで「あなたがたはキリストのことをどう思うか」とお問いになったのは、ご自分を指して「あなたがたはキリストである私をどう思うか」とおっしゃったのではありません。ここでの「キリスト」は称号のようなものです。救い主という意味です。メシア、救い主のことをあなたはどう思っているのか、とお尋ねになった。つまり、あなたは何が自分の救いだと信じているのか、誰があなたの救い主なのか、とお尋ねになった、ということです。
     これは私たちへの問です。どうでしょう。皆さんは何とお答えになるでしょうか。何があなたの救いで、誰があなたの救い主ですか?
     ご近所にできた友人の中に、児童精神科の看護師をしている人がいます。彼はこれまでたくさんの子どもたちを見てきた。家庭を中心とした子どもを取り巻く環境のために傷ついてきたたくさんの子どもと接してきました。思い切って環境を変えないと、どうにもならなくなってしまうこともあるそうです。そんな風に子どもたちの話をしているときに、フトその方が、だからこそ宮井さんのような人の仕事が大切なんだと思うと言いました。こういう教会のようなところで、家庭とは違う価値観で子どもを受け入れてくれて、そういう場所があると子どもが知れることが大切だと思う、と。背筋を伸ばされるような言葉でした。
     子どもも大人も、誰もが救いを必要としています。自分ではどうにもならないことや、自分ではどうしても責任負いきれなくなってしまうことが私たちはある。呻くしかない私たちに、一体何が救いであり、誰がそんな私たちの救い主なのか?「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか。」この主イエスからの問にどう答えるのかということが、そのまま、私たちの社会の中で行き場がなくなっている子どもや大人たちに、私たちキリスト教会が語りかける福音の言葉そのものではないでしょうか。そんな思いを抱きながら、改めて与えられた御言葉の前半部に目を向けたいと思います。

     ある人が主イエスを試そうとして言いました。「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」主イエスはお答えになります。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の戒めと言いながら、これと同じように重要な第二の戒めも教えてくださいました。「隣人を自分のように愛しなさい。」そしてこれらの戒めについて「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ」と言っておられます。
     この「かかっている」と翻訳されている言葉について、一番有名なギリシア語の辞典を調べてみるととても面白い解説をしています。ドアが蝶つがいにかかっているように、律法全体と預言者もこの戒めにかかっているという意味だ、と言うのです。律法全体と預言者というのは、旧約聖書と言って良いし、更に言えば新約も含めた聖書全体と言っても良いと思います。聖書は、あの二つの戒めが蝶つがいになって支えている。蝶つがいは片っぽでも外れると、ドア全体が使い物にならなくなってしまいます。それと同じように、ここに神の心が込められているのであって、これを外しては聖書を読む意味が無いということでしょう。
     「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と主イエスはおっしゃいます。神さまが私たちに求めておられるのは愛だ、とおっしゃるのです。全身全霊で私を愛しなさい、と命じておられる。神への愛をなくしたところでは、聖書なんて読んだって仕方がないとおっしゃるのです。激しい言葉です。
     この御言葉に聞くときに決して忘れてはならないのは、この数日後に主イエスが十字架にかけられたという事実です。これが十字架に向かうイエスのお言葉という事実を決して忘れてはならない。私たちは、愛を求めておられる神を拒んでイエスを十字架にかけた。そこまでして神の愛を届けてくださった。このイエスこそ、私たちのメシア、救い主です。メシアは神の子です。その主イエスが私たちの愛を欲しておられる。神の愛に、愛をもって応えて欲しい、と。
     神への愛と隣人への愛は、一つです。目に見える隣人を愛さずに、目に見えない神を愛することはできない。しかも主イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃっています。自分を愛することが前提となっている。自己愛に病んでいる時代です。だからこそ、主イエスの熱い愛がどうしても必要です。どのようなときにも私を愛してくださる方が私の救い主でいてくださる。その事実が私たちに愛の実りを結ぶのです。