カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 罪から救いへ

    2023年11月5日
    創世記3:1~15、ローマの信徒への手紙7:7~13
    関 伸子牧師

     今日は、使徒パウロが56年頃、コリント滞在中にローマの教会に宛てて書いたローマの信徒への手紙の第7章7節から25節を読みます。「では、何と言うべきでしょうか。・・・・・・断じてそうではない」という言葉を読んで、すぐに思い出すのは、第6章のはじめです。そこでは、罪の増すところには、恵みもそれだけ増して来る、と言っているのですけれども、それには、すぐに危険があることが感じられたのでしょう。それなら、こうなる、というだろうが、そんなことは、断じてありえない、というのです。

     ここに、福音を語る時の不思議な性質が出てきています。福音を語るのは、恵みを語ることです。恵みを語るためには、いつも人間の罪の深さを語らなければなりません。「律法は罪なのか」と言われたら大抵の人は驚くにちがいありません。第7章において、罪と律法とは同じものであるのか、あるいは両者の間にどのような関係があるのか、律法の本性について論じながら、その罪との関係を説いていきます。パウロはここで、律法という光に照らされなければ罪はわからないと語ります。

     律法は罪を自覚させます。その例としてパウロは十戒の最後の戒め、「貪ってはならない」を取り上げます。子どもにあの子と遊んではいけないと言っても、その子は隠れて友達をつくり遊ぶでしょう。子どもは自分のことだけを主張するものです。大人は、それを見て、むしろ可愛らしいと言います。しかし、子どもが可愛らしいと見ているのは、子どもには律法はわからないと思うからではないでしょうか。それが行き過ぎて憎らしくなるのは、ここにも律法が生きていることを認めたからです。私は神の律法の前に立つとき、はじめて真剣な罪人とされるのです。ちょうど太陽が部屋にさしこんだとき、今まで分からなかったゴミが分かるように、罪は神の戒めという、鏡を通してはっきりしてくるのです。

     キルケゴールは『死に至る病』の中で、自分が死に至る病に侵されていることを知らないことこそ最も死に至る病であると言っています。私たちは概念的には自分が罪人であるということを知っていますけれども、そのことにふるえ上がるほど恐れおののいているでしょうか。罪の理解はあるけれども、罪の意識がない。それは律法がないからです。

    罪とは何でしょう。神なしに生きようとする姿、自己中心に生きようとする姿にほかなりません。そして、不思議なことに罪の中にいる人ほど、それが分からないのです。ただ鏡である律法がそれを教えるのです。それは、私たちが、自分の罪深さを知り、その中でのみ知りうる悪魔のとてつもない強さを知って、自分に頼まないで、福音にのみより頼むためです。 
     
     11節においてパウロは反律法主義者ではないので、律法や戒めを罪と混同することは絶対に許されないと言っています。聖や義や善は、本来人々を命に導くものであり、決して死に至らせるものではない。

     15節から24節で、ここから一人称単数での告白調の文章がはじまり、24節の「みじめな人間なのだ、私は」という有名な嘆きの言葉にいたります。パウロの偉大さは、この矢を自分に向けたことです。かつてのファリサイ派のパウロは、キリスト者や、取税人・罪人に、この矢を向けました。しかし、ダマスコ途上で、パウロは「私こそ罪人です」と言い、このことを知ったのです。「私は正しい」と言うことこそ罪なのです。パウロはここで、「私が分かりません」と言いました。パウロは、「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と続けて語ります。「誰がこの死の体から私を救うだろうか」という表現は、誰も救ってくれないというみじめさを具体的に表しています。しかし、イエス・キリストのみが残された唯一の希望であり、この希望はみじめな死から輝かしい復活への希望なのです。

     しかし、今はただ神のみ、神ひとりすべてをなされた。言葉を絶する秘義です。残っていることはただ一つ、感謝だけです。最後にパウロは、「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです」と言いながら神に感謝をしています。「感謝(カリス)」と訳した語は、原語では「恵み(カリス)」と同じであり、行為者の法から見ると「恵み」であり、受け手の方から見ると「感謝」という意味になります。

     キリストの恵みにあずかるということは、言い換えると、平安を与えられるということです。今日は、この後、主のあがないと甦りの力を示す聖餐にあずかることができるのは、まことに大きな幸いです。この平安のうちにあるという幸いを経験して、日々、一喜一憂する、さまざまな波の中にあって、一番深い所で、私たちの存在の奥底に、魂の奥底に、ゆるがない平安をいただいてこの週を歩みたいと願います。お祈りをいたします。