カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 恵みの事実

    2023年12月31日
    詩編145:10~21、ガラテヤの信徒への手紙13:23~29
    関 伸子牧師

     2023年最後の日、みなさんと共に礼拝をささげることのできる恵みに感謝します。みなさんにとってこの一年はどのような年だったでしょうか。教会として振り返ると、悲しいことが重なった年でした。しかし、いつも聖書の御言葉を与えられている私たちは、深い悲しみの中にあっても、互いに祈り合い、御言葉から励ましや力をいただく恵みの事実がここに、確かにあった、と言えるのではないでしょうか。

     今日ご一緒に読むガラテヤの信徒の手紙第13章23節以降にも神の恵みの約束が記されています。ガラテヤ教会はパウロが第二伝道旅行の際に設立した教会ですけれども、その後、パウロとは違った「ほかの福音」に乗り換えてしまいます。それは、救いのために律法の遵守が必要であるという教えです。パウロはガラテヤ教会の人々が福音の真理に立ち戻るようにと願い、「律法ではなく、信仰によって義とされる」と、強く主張します。

     少し前の19節を読むと、律法は、アブラハムへの神の祝福の約束を究極的に実現するその子孫イエス・キリストが到来するまで人々の罪を命じるためのものであり、このイエス・キリストの到来によって神の恵みが人々にも一層満ちあふれました。そして、この神の祝福が人々にもたらされる際に、律法を授かったモーセに代わる新しい仲介者となったのが、神とこの世のすべての人々との間で十字架に掛けられたイエス・キリストなのです。

    律法は、神の御子を送り、人々を自らの子として受け入れる神がどのような神であるかを明らかにします。律法は、教会のために神の家族がどのようなものであるか、また、それはどこからもたらされたのか、そしてまた、それはどう呼ばれるべきかを明確に決定します。律法全体は、「隣人を自分のように愛せよ」という一句を守ることによって果たされるからです。「互いに相手の重荷を担い合いなさい。」そのようにしてこそ、キリストの律法を全うするのです。

     キリストへの信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。今やすべてのキリスト者は、「キリスト・イエスにあって神の子」(26節)であり、「キリストにあずかる洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」(27節)、とパウロの口調は熱気を帯びています。これを直訳すると「キリストに至る洗礼を受けたあなたたちはすべて、キリストを着たからです」となります。「キリストに至

    る洗礼」という表現は、言わばキリストという服「の中に」(直訳)入るための洗礼という意味です。「キリストを着る」と言い換えられています。パウロはそのキリストを仰ぎ見る私たちのことを、こうも言います。私たちは「キリストを着た」。キリストを着てしまった。

     この洗礼によって「キリストを着ている」ということにおいて、私たち教会に生きる者たちは皆ひとつになる。教会ではユダヤ人やギリシア人といった人種や民族による差別もなければ、奴隷や自由人という実分や階級による差別もなく、男女の差別もありません。なぜならキリスト者はみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。キリスト者はみな、一人の人(キリスト)と一つにされている。つまり、すべてのキリスト者は一人のキリストのからだの一部なのです。

     12月25日に「ティル」という映画を見ました。1955年に起きた実話を基にしたリンチ事件を扱ったもので、米国公民権運動を推し進める契機となったことで知られる「エメット・ティル殺害事件」の映画です。母と北部シカゴで明朗快活な日々を重ねるティルは南部ミシシッピの親戚宅をひとりで尋ねる。「白人の前では小さくなって」と母親から注意を受けて。いとこたちと雑貨屋で買い物をした際、女主人に口笛を吹いたことが大事件に発展。4日後の深夜、拉致されリンチを受けた挙げ句、川に捨てられる。失意のどん底に突き落とされた母メイミーは、祈りつつ、ひとりの母親として愛と正義を持って立ち上がり、人前で演説をした。このことが公民権運動の起爆剤となる。差別による暴力の止まらない2022年、連邦法として「エメット・ティル反リンチ法」成立。「神は最も小さく忘れられている者を生き生きと覚えている」ことを思い起こします。このことは、差別や貧困や暴力が死の種を蒔く場所で、いのちを保証するための正義を意味します。非人間的で犯罪的な行為を前にして行動を起こす力を神様から与えられたひとりの女性の証しです。

     今は終わりの時代ということができるような悲しい現実の中に生きている私たちですけれども、神の国の民、神の家族のひとりとして神の時が満ちること、神の働きの完成を待ち望みたいと思います。私たちの間には、ユダヤ人とギリシア人の区別も、奴隷と自由人の間の差別も、男と女の間の差別も、あらゆる差別はなくなりました。私たちは皆ひとつです。そのように言うことができるのです。そして、まさにそこで私たちはそれぞれの賜物、それぞれの個性を生かして、神の子たち、主キリストのきょうだいたちとして生きる。この大きな恵みを心から感謝して、この年を終え、新しい年も、主にあって共同体のひとりとして、いつも神の国を目指して歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。