カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 勇気を出して生きることができる

    2024年5月5日
    詩編8:1~10、ヨハネによる福音書16:25~33
    関 伸子牧師

     「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(25節)。主イエスは、いつもは群衆に向かってはたとえ話の形で教訓を与えましたが、弟子たちには、人のいない時にその意味を説明されていました。ただし弟子たちに対する話も、イエスが肉体をもって地上に生きておられる間は、程度の差こそあれ、やはり、たとえ話の性質を帯びざるを得なかったのです。それは、弟子たちの心がイエスの肉体に対する執着によって曇らされ、御言葉の霊的な意味を悟る力が鈍かったということがあります。

     主イエスが復活してまた弟子たちに現れた時には、主は肉体の制約を離れ、弟子たちは肉体に対する執着から解放され、霊的真理を明白に語り、また、聞くに適した状態となるでしょう。その時は真理の霊が来て、すべての真理を明らかにしてくださるのですから、たとえ話ではなく、明白に父のことを告げても、弟子たちは理解することができるのです。その日には、弟子たちの心にもはや父の事についての疑問は消え、ただ敬虔な祈りが満ちて、イエスの御名によって父に願い求めることになるでしょう。

     27節には驚くべき表現があります。それは「父ご自身が、あなたがたを愛しておられる」という神の愛にギリシア語でフィレオーという言葉が用いられていることです。これは普通「友愛」と訳されることばです。英語で言えばフレンドシップです。私たちは、そういう言葉を使うことをはばかります。神と友だち、そんな畏れ多いことはあり得ないと思う。しかし、ここで主イエスは、私の父があなたがたを友として愛しておられる、そして、あなたがたは私を友として愛する、と言われるのです。イエスを友とする私たちが、神によって友として遇されているとき、いちいち主イエスの取り次ぎを必要としない。いわば神への直通の祈りをすることができる。それが、「主イエス・キリストの名によって」という言葉の意味するところなのです。

     神みずから直接に私たちを愛してくださるのは、そのような愛を受けるに足る何か価値が私たち自身の中にあるからではありません。私たちは、自分で自分に愛想を尽きるような人間ではないでしょうか。人の心の底の底、隅まで見透かす神は、私たちの中に何の愛すべきものを見出すでしょうか。このように虚しい私をも義としてくださる主イエスを極力愛し、主イエスを神の子として信じる。主イエスに対するこの愛と信仰の故に、神は私たちを愛してくださる。それ以外に私たちには何のよいところが見いだされ得るでしょうか。

     「私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)と言われたイエスは、弟子たちの離反をも予告した上で、「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(33節)と語ります。第13章後半から四章にわたって続くイエス・キリストの別れの説教の締めくくりの部分です。その直後にこう語られています。なんと力強い、そして慰めに満ちた言葉でしょう。私たちの心に、直接響いてくる言葉です。この言葉に励まされてきた方も多くあるでしょう。

     ところで、主イエスはこの世を去り、弟子たちも散らされて行く、そのようなことを聞かされて、どうして弟子たちの中に平和があるのでしょうか。「私によって平安を持つ」とは、「私において平和を持つ」(直訳)であり、「この世で苦難を抱いている」とは、「この世において苦難を持つ」(直訳)です。したがって、弟子たちは確かにこの世においては迫害などの困難な時を経るけれども、言わばイエスという世界に住んで、この世にありながらもイエスの言葉に従い続けるなら、神から平安が与えられるのです。

     公民権運動のときにさかんに歌われた黒人霊歌「勝利をのぞみ」の原詩には、「いつか、イエスのようになれる。いつか、私たちは打ち勝つことができる。いつか、私たちはみな、自由になれる。心の奥底から、そう信じている」というシンプルな言葉がくり返されています。ここには、あらゆる差別・偏見・抑圧、それゆえに生じる貧困と闘う世界中のキリスト者が時代を超えて分かちあってきた確信があります。この世の抑圧的暴力的な力は多くの人々を傷つけ、命を奪うこともある。しかし、この世のいかなる力も、命を与える神の愛を超えることはなく、苦難と闘いの直中に生き続けるイエスは必ずすべての人を真の平和と自由へと導くという私たちの確信と希望を奪い去ることはできないのです。

     私たち自身は、しばしば苦難の中、悩みの中にあります。さまざまな課題に取り囲まれています。八方ふさがりだと思うこともしばしばあります。どこから突破口を見つけたらよいのかわからないような状況の中に置かれている時に、主イエスはそれを克服しておられます。その主が共にいてくださることによって、私も苦難を乗り越えることができる。それが信仰の最も大きな賜物ではないでしょうか。この世の困難の中にありながらも、すでにこの世とその指導者に打ち克っているイエスを信じることで平安を得ることができる。

     イエス・キリストにあって父なる神とイエス・キリストがどんなときにも共にいてくださる。ここに他の何にも代えることのできない真の平安があります。このことを私たちはどんな時にも忘れないようにしたいと思います。「別れの説教」の結びの言葉をもう一度心に刻んで終わります。「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」。お祈りをいたします。