カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • わけのわからない神

    2024年4月28日
    創世記22:1~19、ヘブライ人への手紙11:8~12
    篠﨑 千穂子伝道師(めぐみ教会)

     この有名なイサクの奉献物語から、私たちは「アブラハムは素晴らしい信仰を持っていたから、イサクを失わずに済んだ」と思ってしまいがちです。けれどもそれは、神の恵みや信仰は、神から無条件に与えられる賜物である…という話と矛盾します。本日は、この創世記第22章から「イサクを献げよ」と言ったり「イサクを殺すな」と言ったりする一見矛盾だらけの神が、本当はどういう方なのかをご一緒に確認していきたいと思います。

     アブラハムは75歳の時、神から唐突に「父の家を離れ私が示す地に行きなさい。」と告げられます。またカナンの地に入ると、「あなたの子孫にこの地を与える。」と言われましたが、アブラハム子孫に子どもはなく、そして彼らは既に年老いていました。それから長い年月を経てアブラハム100歳のときに妻サラを通して与えられたのが、本日のキーマンであるイサクです。

     そんな奇跡の子を神はビックリするほどあっさりと、「焼き尽くすいけにえとして献げなさい。」と言われます。「神のわけのわからない発言その①」です。

     けれども、この神のわけのわからない発言にアブラハムは粛々と従い、イサクを薪の上で手にかけようとするその瞬間、神から待ったがかかります。「その子に手を下してはならない。」…これもまた「神のわけのわからない発言その②」です。
    こんなことを言うくらいなら、最初からイサクをいけにえに献げよ、なんて命令しなきゃよかったのです。けれども神がわけがわからないのはこの時が最初ではありません。神はアブラハムに父の家を出ろと言ったときにも、カナンの全土をアブラハムの子孫に与えるといったときも、具体的な方法を教えてはくれませんでした。神は何故こんなわけのわからないことをなさり、聖書はわけのわからないエピソードから神のどういった姿を伝えようとしているのでしょうか。結論から言うと、「神はいつも見ておられる」ということでしょう。

     14節でアブラハムがこの神と会った場所を「ヤハウェ・イルエ」=「主の山には備えがある」と名付けましたが、これはもともとの言葉は「主が見ていて下さる」という意味です。アブラハムの心の中にはいつでも「神が見ておられる」という意識がありました。

     ただ、一つ注意が必要です。アブラハムを見ていた神は、彼に「あなたが神を畏れる者であることがわかった。」「自分の独り子を私のために惜しまなかった」と語り、ついには「地上のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる」と最上級の祝福の言葉を彼に送っています。けれども、「そういう信仰深いあなただから、イサクをあなたの手に返してあげるのだ。」とは一言も言ってはいないのです。

     神はこのエピソードに限らず、アブラハムをいつでも見ていました。その中には、彼にとって見てほしくなかった出来事や多くの失敗があることを、私たちは聖書を読むと知ることができます。彼の行動を見ると、彼はいつでも信仰深かったとは断言できませんし、神の約束をいつでも全面的に信じきっていたとも言えなそうです。アブラハムは私たちと同じように神の約束を前に戸惑い、疑い、自分の考え得る努力で事態を打開しようとする普通の人間でした。けれども、聖書は彼を「信仰の父」と評しています。創世記第15章6節は「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と語ります。けれども、やはりこのときも彼は神のいうことのすべてをその通りに為ると信じたのとは少し違っていたようです。神のなさりようがわからなかったし、言われることも理解が出来なかった。けれども同時に、彼は自分が神を信じきれない不信仰な人間だということをよくわかっていたのでしょう。だからこそ、不信仰な自分を選んでくれた神に、人生を賭けてみた。わけがわからなかったけれど、言われたとおりに父の家を出たし、言われたとおりにイサクを生贄として献げようともした。アブラハムが葛藤しながら、それでも神に人生を賭けようとしたときに、いつでも神はそれを見ておられました。神に人生を賭けているとは傍目には見え難い出来事も彼の人生にはたくさんあったにもかかわらず、アブラハムが神に人生を賭けた一瞬一瞬を尊いものと評されました。それが、私たちの信じる神なのです。

     このイサク奉献物語を、ある聖書学者は「イサクその人の危機ではなく、アブラハムと神との関係性の危機」と呼びました。アブラハムは多くの危機を通しても尚約束を果たされる神の姿を見せ続けられる人生の中で、段々と神への信頼を増していったように思います。かつては神のなさることを信頼しきることができず、自分の努力でどうにか神の約束を成就させようとあの手この手を講じたアブラハムは、その危機を神に丸投げすることで人生最後の大博打にでました。

     神はこの大博打に打ち出たアブラハムを、「神を畏れる者」と評され、祝福の基とすることを再度誓われるのです。このわけのわからない出来事を頻発させる神が描いている壮大な全世界救済計画に、イスラエルの民が召されたのと同じように、神は私たちをも召しておられる。神がなさるわけのわからないことはすべて、やがての日の、新しい天と新しい地とのためのひとつひとつのピースなのです。

     私たちは「私を見ている神」「私と共に痛む神」「約束をどんな手を使ってでも守る神」をここで見せつけられます。神のなさりようがどんなに訳が分からなくても、たとえその意味を生涯分かることがなかったとしても、神の約束は粛々と果たされていく。「神が見ておられる」とは、別の言葉で表現するならば、「神が共に生きる」ということになるでしょう。そして「神が共に生きる」ということは、自分の願うバラ色の人生よりも、私の目にはわけがわからないようにしか見えない神のご計画の適切さを認めること。そしてその神に、人生を賭けてみるということなのです。