カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    2024年8月11日
    ヨブ記28:12~28、コリントの信徒への手紙一3:1~9
    関 伸子牧師

     パウロはこういう手紙をいくつもの教会に送りました。パウロは、第2章の終わりに、「私たちは、キリストの思いを抱いています」と語りました。そういう言葉を聞いていると、私たちもうなずきながら聞きます。実際に、コリントの教会の人々の生活を見て、その信仰を考えて、それにふさわしいように話をしようとしているのです。そうしてみると、この教会の人びとは、まだ、幼子のようなものである、ということになります。肉に属しているとしか言えない、と思ったのです。
    ですから、「私は、あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えませんでした。まだ固い者を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」(2節)と語ります。まだ乳以外の固い食べ物を食べることもできない乳児であると言う。「そうできないでいた」という表現や、「まだできません」という表現に「なお」という強調形が付加されていることは、以前も今も霊的に成長しておらず、霊的な言葉を理解できないコリントの人々の様子を如実に物語っています。

     コリントの教会の人々は、むしろ自分たちは大人だと確信を持って生きている人びとの集まりでした。場所はギリシアです。ギリシア人が多かったと思います。そのギリシアの世界に生きて、自分たちは大人だと、この世界を支配しているイタリア人の政治家は、あれはわれわれに比べたら大人とは言えない。政治家だけではない。周りを見回して、みんな自分よりなんとなく未熟なように思う。そういうところに生まれた教会です。霊的な知識や体験において、自分たちは大人として不快ものが備わっているという自負心があったことは明らかです。だから争いがあったのです。だから教会の集会が混乱したのです。ここでは、妬みや争いが出てきました。

     パウロとアポロとは、実際にこの教会の伝道に関わっていたのですから、この二人の名前だけがここに出てきても不思議はない、と思います。しかも、この二人は対照的な人でした。パウロもアポロも、当時としては、学識豊かな人でした。しかし、パウロは、キリキアのタルソからはじまって、エルサレムなどで、ラビとしての訓練を受けた、生粋のユダヤ的伝道者でした。キリスト者になる時にも、劇的な回心をした、ということが使徒言行録に記されています(9章、22章、26章)。パウロは、キリストのゆえに、気が狂ったように(コリント二11:23)伝道した熱情的な人でした。

     これに対して、アポロは、アレキサンドリア出身で、聖書に精通し、しかも雄弁でした(使徒言行録18:24-28)。アレキサンドリアは、旧約聖書のギリシア語訳をしたところで、ギリシア文化とへブル文化とが接触、融合したことで、特に知られているところです。そこで、旧約聖書に精通するほどに学問をした人でした。雄弁も、当時の素養のひとつであったでしょう。

     このお互いに全く違った二人が、この教会の伝道に関係しました。それなら、両方の人に、それぞれつく人ができることは、不思議なことではないかも知れません。しかし、パウロはそう思いませんでした。それには、妬みがある、とパウロは見ました。

     「私は植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長してくださったのは神です」(6節)。アポロは、もちろん、初歩的な伝道をしたでしょうが、信仰生活に肉付けし、美しくすることが得意だったかもしれません。したがって、パウロの目から見ると、自分は、植える役目をしているのだが、アポロは、水をそそぐのである、と思われたかも知れません。

     そして「ですから、大切なのは、植える者でも水を灌ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです」(7節)、また「私たちは神の協力者、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(9節)とあるように、パウロもアポロも神のために働く動労者なのだから、分裂や争いは無用のものである、と人々を説得しようとしています。そしてそこで共通していることは、「私たちは神のために力を合わせて働く」ということです。

     自分の信仰の成長について悩むことが、しばしばあります。その時、助けを与えてくれる人はあるにちがいありません。しかし、信仰をほんとうに育ててくださるのは、結局は、神であることを承知していなければなりません。ですから、たえず、神に求めるのです。

     「私たちは神の協力者、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。これは神のみこころに従って神と共に働く者、すなわち神に仕える者のことです。言い換えれば、伝道者は神の御手の中にある器にすぎません。そして私たちの働きは、あなたがたを神の畑として耕し、実りあるものとし、神の住む建物として建てることにつきる。みんな大切なのは神なのです。神の働きのなかに置かれていることを知っている。そこに大人である者の知恵があります。

     神が、変わることのないお方であり、いつでも、恵みに満ちておられる、ということこそ私たちの信仰のほんとうの姿であると思います。私を尊ぶことよりも神を尊ぶことを覚えてほしい。そうでないと、あなたがたに真実の平和はこない、とパウロはここでこころを込めて語りかけているのです。お祈りをいたします。