カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストの献身

    2024年11月3日
    イザヤ44:6~17、ローマの信徒への手紙3:21~31
    関 伸子牧師

     ローマの信徒への手紙は、第3章21節は、「しかし今や」と言って、新しい話がはじまります。神の義は福音の中に記されたのである、これが言いたいことのすべてです。人間は、人をさばく罪、人をさばくことによって、ようやく自分をささえる、そういう心があります。信じるということは、さばくことを止めるということです。

     神が人間に言うことのできた最も良い言葉を、パウロは「イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのです」(22節)と語ります。わたしたちは小さな体を持っているにすぎないものですけれども、その生活は、実に複雑であることをよく承知しています。パスカルというフランス人の有名な言葉に、人間の悲惨というものは、王位を失った王の悲惨である、というのがあります。人間の悲惨は、一度王であったことがなかったら、今のような苦しみや惨めさはなかっただろうというのです。聖書は、この事実を見事に言い当てて、「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」と言うのです。人間が今栄光を受けるに足らない状態にあるのは、はじめからそうであったからではなくて、最初は、神の栄光を受けていたのです。天地を創造された神は人を造り、極めて良かった、と言われたのです。しかし、すべての人は罪を犯したため、であります。

     エデンの園にいたアダムとエバは、日毎に、神にお会いすることのできる生活をしていた。一つを除いては、何も制限されていませんでした。園の中央にあった知恵の木の実を食べることだけが禁じられていた。その彼らが蛇の誘惑によって、その生活を失ったのです。蛇の誘惑、そしてアダムたちの弱点は、神のようになれるということにありました。神に背くということは、神の栄光をないがしろにして、人間が自分の栄光を主張しようとすることであったのです。
    それが「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより値なしに義とされるのです」。罰を覚悟しているのに、罪を赦して、救いを与えたというのですから、まさに信じがたいことです。しかし、パウロはすべての人が無償で赦されているというのです。

     「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに冒されてきた罪を見逃して、御自身の義を示すためでした」(25節)。「贖いの座」という言葉に注目したいと思います。これは神殿の調度品を指す語です。口語訳は「あがないの供え物」、岩波訳は「贖罪の備え物」と訳しています。

     イスラエルの民は年に一度の大贖罪の日に、犠牲の動物の血を「贖いの座」と呼ばれる契約の箱の上蓋と箱全体に振りかけ、これを民の罪が清められることの象徴としました。その蓋の所で神を拝む、民の礼拝の一番大事なわざが営まれました。この契約の箱のあるところに、神の臨在を信じてよいのだという約束があった。そこに神の栄光を現れると人びとは信じたのです。しかし同時に、神の栄光が現れ、神のみ前に出るのだということを知る時に、神の民はいつでも、嫌でも知らなければならないことがありました。それは、神さまはこの契約をきちんと守っていてくださるけれども、自分たちは絶えずそれを裏切っているということです。自分で取り繕うことができなくかっている時に、あそこで大祭司が、わたしの罪のために血を注いでいるとなお信じる。それでようやく神さまは、わたしの方を向いてくださるのだと信じることができる。その時に、どんなに深い慰めを経験したことでしょう。

     パウロは、キリストの死の意義を説明する際に、この罪の清めに関わる神殿供犠をメタファー(隠喩)として用い、キリストの死が私たちの罪の解決につながる、と述べているのでしょう。血が流されるほどの犠牲がささげられているのです。したがって、わたしたちは、もはや自分の救いのためには何もする必要もないのです。私たちに求められているのは、キリストの贖いを信じることです。今やわたしたちは赦しを受けたものとして、正しく生きることができるのです。

     「今この時に」、新しい時代を迎えたことで神の忍耐は必要がなくなった。ここでパウロが意識した「今」というカイロス(単に時間の長さを表す「時(クロノス)」とは異なり、特定の時期、絶好の機会を指す)は、もちろんパウロが生きていた今、手紙をしたためていた当時の今を直接的には指しますけれども、その瞬間だけではなく、それを越えて以後の歴史の時間すべての「今」でもあります。そして「今この時」示された神の真実は、ただ一回の出来事、キリストの十字架によって示されたのです。そのキリストの十字架はただ一度の過去の出来事ではなく、わたしたちの今にも及んでいます。パウロの「今」とわたしたちの「今」は、神の時間・カイロスの中という同時性を共有しているのです。

     パウロは、「価なしに」という言葉を24節に書いています。この「価なしに」というのは、主イエスの価が、まことの価が、わたしたちにとっても、それこそまことに確かなものであることを言いあらわしていると言ってもよいと思います。だからわたしたちは、価なしに、その主のまことに支えられて、神のみ前に立つのです。

     救いの確かさはどこにあるのでしょう。それは信仰であるとも言えます。わたしたちと同じように弱さを持ち試みにあわれた主イエスが、十字架について救い主キリストの業を完成してくださったことを信じる者は、神の義によって義とされ救われる。このキリストの献身をいつも心に留めて歩みたいと思います。祈ります。