神の言葉は生きている
2024年11月24日
ミカ書2:12~13、ヨハネの黙示録19:11~16
関 伸子牧師
先ほどお読みしました第19章11節以下は、「私は見た」(11,17、19節)という言葉によって三つの幻に区分されています。今日は第一の幻のところを読みましたが、ここに、天が開かれる光景が語られ、圧倒的な光の世界から白馬にまたがった騎手が登場します。白馬の騎士の目はすべてのものを透徹し、めらめら燃える火のように輝き、頭にはすべてのものを統治、支配する多くの王冠をいただいています。身にまとったマントは、これまでの戦いの激しさを物語る敵の返り血で染まっています。同じような白い馬に乗った天の軍勢が、白い麻の衣で身をつつんで彼を取り囲み、彼に従っています。
「誰も知らない名」名前はそれ自身固有の力を持つと理解されてきました。それゆえ、名が知られないことは、馬に乗るものが絶対的に他者に支配されない神的存在であることを意味します。しかし、すでに11節で彼は「『忠実』および『真実』」と呼ばれ、13節では「神の言葉」、16節では「王の王、主の主」と呼ばれています。
ここにはヨハネ特有のキリスト論的表現、イエス・キリストを神の言葉(ロゴス)というのが出てきます。これは黙示録でここだけです。ヨハネ福音書でも、イエス・キリストをロゴスと呼ぶのは初めの第1章序のところだけです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。またヨハネの手紙にもあります。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち命の言について」(1:1)。今この黙示録でも、小羊キリストは「神の言葉」と呼ばれています。
わたしたちは「御言葉、御言葉」、御言葉が大切である、とよく言います。御言葉に慣れ親しんでくると、イエス・キリストが周知のことになり、一つの教理となり、それは自明のもののようになります。しかし、わたしたちは、本当に神の言葉であるイエス・キリストを知り尽くしているでしょうか。今、最後に勝利する、この「真実」なお方は、「自分のほかは誰も知らない名が記されていた」(12節)。わたしたちは、その人格と御業の秘義を完全に知りつくすことはできません。
しかし、ただひとつ、わたしたちに記されていることがあります。このお方が、「血染めの衣を身にまとい、その名は『神の言葉』と呼ばれた」ことです。イザヤ書第63章3節に「私は一人で搾り桶を踏んだ。もろもろの民のなかで 誰一人私と共にいる者はいなかった。私は怒って彼らを踏み 憤って踏みつけた。彼らの血が私の衣に飛び散り 私は装いをすっかり汚してしまった」とあるように、この血はわたしたちの罪の血です。黙示録の自社は、血に汚れた衣をまとっている騎士の姿を見て、このイザヤ書第63章の表現を思い出したのではないかと多くの人びとが推測し、それは間違いのないことであると思います。返り血を浴びるというのは、それ自体すでに血なまぐさいことです。柔和で謙遜なはずのキリストが報復の返り血を浴びている騎士として登場するということは、およそキリストらしくないし、わたしたちの信仰にも逆らうところがあるという思いがあるかもしれません。しかし、ここで語られている白馬の騎士のキリストのお姿、その登場、またはそれに続く軍勢がもたらした神に背く者たちが滅ばされている光景は、福音、喜びの知らせではないかと思います。
特にこの第19章が第18章に続いて記されているひとつの大きな理由は、第18章で大淫婦と呼ばれていたローマの権力の敗北が記されていたのに続いて、この大淫婦ローマの権力も自分たちで悪を行っていたのではなくて、獣の支配の下にあったということであり、その背後にあった真実の悪の力がここで滅ぼされることにあります。19節に「あの獣」というのが登場し、20節に続く記事は「しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた」とあり、更に「獣も偽預言者も、生きたまま硫黄の燃え盛る火の生けに投げ込まれた」とあるのです。これも血なまぐさい光景です。私たちの周辺に起こるいまわしい事件の主役たちを見ていると、その人たちも同じ人間なのに、まるで何かに取りつかれたような恐怖に駆られてこんなことをしている、とても恐ろしいものを見る思いがします。それがここで断ち切られる。誰の手によってか。イエス・キリストの手によってです。イエス・キリスト、神の言葉は、悪魔に勝利するために、わたしたちの罪の血をあびて、十字架にかかり、わたしたちの罪のためのあがないをしてくださったのです。
パトモスの小島にあって、ヨハネは、神の言葉を聞きました。しかもヨハネ自身、神の言葉を担う伝道者であります。こういうものの譬えはふさわしくないかもしれませんが、夢の中で白馬に乗るイエスさまの姿を見た。獣から羊を守る、羊飼いの姿を見た。夢から覚めて、なんだ、夢かと思ったら、その羊飼いの剣だけは、ずっしりと自分の手の中に残っていたというような話であります。このみ言葉の剣が、獣と戦うための剣であるからこそ、ヨハネもまたパトモスに流されたのです。そしてヨハネ自身、この神の言葉によって生かされてきたし、またそのみ言葉によって、教会の仲間を守ってきた、養ってきたのであります。
そのヨハネが、改めて問われたと思います。「わたしを信じるのか。わたしの言葉を、その剣の力を信じるのか、信じないのか」。宣教が開始されてから60年を過ぎたところで、改めて思わされることは、私たちの教会には、御言葉の剣以外の、何の武器も与えられていないということです。その確信に立ちながら、主の再び来られる日を待ち望みたいと思います。祈ります。