カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 安心して歩む

    2025年3月16日
    エレミヤ31:7~9、マルコによる福音書第10章46節~52節
    関 伸子牧師

     受難節第2主日を迎えたこの日の礼拝は、「思い起こしてください」というテーマのもとに、聖書日課にしたがって、共観福音書に記されている主イエスのご変容の記事を読む教会が多いと思います。今朝、わたしたちはその少し先に進んで、マルコによる福音書第10章46節以下の物語を読みたいと思います。
    盲人バルティマイは自分が願ったことでもないのに目が見えず、道端に座り、物乞いをしていました。道端に座って、物乞いをしていましたけれども、そこはイエスの通る道端であり、イエスを強引に引き留めることによって予想外の仕方でイエスの近くに座ることになったのです。

     バルティマイは、歩いているのがナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めました。この人は目が見えないのに、イエスは確かにダビデの子として救い主であることを承知していました。「ダビデの子」、つまりイスラエルがダビデの子孫の中から現れると、待ちに待っていた救い主の意味です。バルティマイの肉の目は閉じられていましたが、霊の目は、はっきりと開かれていました。

     主イエスは立ち止まって、「あの人を呼んできなさい」と言われました。人々は盲人を呼んで来ます。イエスは盲人に、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と告げます。ここには短い三つの言葉が連続しています。実際にこの時、この言葉を聞いた盲人バルティマイは躍り上がってイエスのところに来ました。しかし、ここではまだこの人は癒されていません。「安心して立つのだ」と言われている、その安心できる根拠は、自分の中にはないにはないのです。加藤常昭先生はこのところの説教でこのように語っています。「なぜ呼ばれたのだろうか。自分がそこへ行けるだろうか。行く資格があるだろうか。さまざまな不安や疑いを持っている時に、『安心して立つのだ』と言われるのは、その安心できる根拠は、自分の中にはない、向こう側にあるから立てるのです。・・・・・・『安心しなさい、立って生きなさい、主がお呼びになっている』その主に信頼しきって従ったらよいのだ、とここで励ましていただくのです」(『加藤常昭説教全集6 マルコによる福音書2』353頁)。説得力ある説き明かしです。これは盲人バルティマイだけに、ある時、主イエスが語られた言葉に留まらず、私たちがいつも聞きたいと思う励ましの言葉です。

     マルコは「その道」を大切にしているようです。原語のギリシア語では冠詞のつけられた「道」ですから、特別な道を指しています。「その道」から外れていた男がイエスの歩む道に戻されて、物語の最後では、「その道」を「イエスに従った」と述べてます。その道に戻されるときに何が起こったかを、雨宮神父はこのように解説しています。「道に戻されるとき何が起こっているのか、それを書くのが47節から50節である。「『叫び続ける』バルティマイに対して『呼ぶ』イエスがいる。49節で新共同訳が『呼んできなさい』・『呼んで(言った)』・『お呼びだ』と訳し分けた原語はいずれも『フォーネオー』である。この用例の典型例はペトロが裏切った時の鶏の「鳴く」である。さらにフォーネオーは「(大声で)呼びける、来させる」の意味で使われるが、この用例で注目させるのは死者を生命に呼び戻すイエスの叫びを表す例である(ルカ8:54、ヨハネ12:17)。きょうの福音のフォーネオーの背後にもこの意味が考えられる」(『主日の福音―B』279~280頁)。
    人々のことばも聞かずに「叫び続けた」男の叫び声がイエスに届き、死者を命に戻すイエスの呼び声に出会う。この叫びはよわよわしい声ではありません。鶏の鳴き声にも似て、腹の底から出る呼ぶ声です。都会ではあまり大きく響く鶏の声は聞きませんが、私は日本聖書神学校で神学生として学んでいた時にフィリピン研修でミンダナオ島の農家に宿泊した時に、夜明けから高々と鳴く鶏の声を思い出しました。また、長く信仰生活を送った母教会を離れて神奈川県泉区にある教会での研修が始まって間もなく、早朝に近隣の教会と一緒に子どもイースター礼拝があり、その時、古い生活を捨て、やがて牧師になる道を歩んでいることの自覚を持ったのは、鶏の高々と鳴く声でした。

     「イエスは立ち止まって、『あの人を呼んできなさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」(49~50節)。多くの人々は目の見えない人をしかって黙らせようとしましたが、イエスはそのようなことをする多くの人々に目の見えない人を連れて来るようにと命じることで、逆に多くの人々をしかったのです。そして、まさに「立ち止まって」くださった。イエスは目の見えない人の信仰の純真さを見抜いて、その人を憐れみ、その目をいやしました。バルティマイは、そのときから新たに生き始めたのだと感じたことでしょう。

     主イエスに呼ばれて、癒され、信仰を持って、バルティマイが歩く道は十字架の道です。その十字架では主イエスが神に叫びます。叫びが神に放置されることは決してありません。 盲人バルティマイのいやし(救い)の出来事は主イエスのご受難と共に記憶されてきたものでしょう。イエス・キリストとは誰か、その十字架の死とは何か、それはあのバルティマイにおいて示されていると言い得るのです。

     バルティマイのように、これほど熱心に神を呼ぶ人は幸いです。今度は主イエスが呼んでくださるからです。わたしたちもバルティマイのように霊の目で真実なものを見ることができるようになり、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」という主イエスの言葉に励まされて、今、ここから、生活のただ中に安心して歩いて行きたいと思います。お祈りをいたします。