ここに愛がある
2025年4月6日
創世記125:29~34、マタイ20:17~28
関 伸子牧師
主イエスが12弟子だけを呼び寄せて、苦難を受けるという予告をしたすぐ後に、ゼベタイの息子たち(ヤコブとヨセフ)の母がイエスのもとに来て、ひれ伏し、子どもたちのことについて願い事をしました。主イエスのほうから「何をしてほしいのか」と声をかけられて母親が口を開きます。「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。この母子の厚かましい願いは、主イエスの三度目の受難予告と奇妙なコントラストをなしています。主の苦しみのことは耳に入らず、「三日目に復活する」という栄光の言葉だけが耳に飛び込んできたのかもしれません。
母の願いは、イエスがメシアとして栄光の座に着く時、息子たちをその左右に座らせてほしいということでした。左右の席は、メシアに次ぐ最高の位を意味していました。弟子たちはどこまでも利己的でした。わたしたちの願いもどこか自分中心的です。信仰生活においてもこうした自分中心の思いがあります。しかし、イエスは、必ずしもご自分の右左に座ることを否定いたしません。ただそのことは隠れた神の御手の中にあると言われます。わが子のために善かれと思って願い求めた母親の願いを聞いた主は、その息子たちに向かって言われました。「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる」。その「私の杯」がどんな味わいのものなのか、その時はまだこの兄弟と母親はわかっていませんでした。
イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問い返されました。この「杯」とは苦い杯であり、これから受けようとしておられる苦難を指しています。弟子たちは「できます」と胸を張って答えました。この言葉には彼らの覚悟が感じられます。主イエスの「王座の右と左に座る」ことは母親だけの願いではなく、ヤコブとヨハネの願いでもあったことがわかります。しかし、この後どうなったかを読むと、この二人も、他の弟子たちと同じように、主イエスの十字架の死の時には、逃げ去れました。最後の時、主イエスの十字架の右側と左側にいたのは、ヤコブとヨハネではなく、皮肉にも二人の強盗でした。誰もその杯を飲むことはできなかったのです。
ヤコブとヨハネの母がイエスに特別に頼んだことを聞いて、他の10人の弟子たちは腹を立てました。自分たちを出し抜いて二人だけが出世しようとはけしからんと、憤慨したのです。自分を捨ててイエスに従うべき弟子たちがこのようでは、まことに情けないことですけれども、案外、人間の現実の姿はこのようなものかもしれません。弟子たちを責めるよりも、彼らの姿を見て自戒したいものです。
主イエスは弟子たちを呼び寄せて、彼らを戒めました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、伝えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(26b~28節)。イエスは弟子たちに仕えることを求めました。それはイエスご自身が仕える者としてこの世に来たからです。それは、多くの人々を罪の刑罰から救い出すために、身代りとして十字架の死を遂げるためでした。ここで「身代金」と訳されている言葉は、昔、戦争で捕虜となった者や奴隷は身代金を払うことによって釈放され、自由になることができたものです。このように、イエスの十字架上での死は、私たちを罪の束縛から解放するための身代金だったのです。
この地上でキリストの左右に座ることは、あの十字架の上の犯罪人のように、十字架を主と共に負うことではないでしょうか。そうでないと、主イエスに、「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない」と言われてします。
しかし、イエスの右と左の座に着く人々は、父なる神が主権的に定めていることであり、イエスが一人で決定することではないのです。そして、イエスの右と左には、誰が招かれようとも父なる神と聖霊なる神が永遠に座しています。
弟子たちはイエスが死に至るまで人々に仕えたように、お互いの間で同様にして仕え合い、権力よりも奉仕を、支配よりも従順を、強制よりも自由を天の王国の印としてこの世に示すことが求められています。
息子のヤコブは、ヘロデ・アグリッパ王によって処刑されたと記録されています(使徒12:1)。王座の傍らにはべる代わりに、王座にある者の命令によって殺されました。もうひとりの息子ヨハネもまた殉教の死を遂げたと言われています。主の杯を飲むことによって彼らは主の福音を証しする者となり、今もなお生きて福音を語り続ける者となったのです。
キング牧師は、1968年2月4日、暗殺されるちょうど2か月前に、この物語の平行記事、マルコ福音書のテキストで「めだちたがりや本能」という興味深い説教をしています。(『真夜中に戸をたたく』所収)。キング牧師は、主イエスが、彼らの「めだちたがり」の願いをそのまま退けなかったことに注目し、「めだちたがりや」もそのまま悪いわけではなく、正しく用いれば本能である、と説きます。そして愛、道徳的卓越性、寛容においてこそ、第一人者になってほしいと勧めるのです。私たちもまたゼベタイの兄弟、母、キング牧師と同じ福音にあずかっています。それゆえにまた彼らと同じように「主の杯」を分かち合うことになります。その味わいがどういうものであり、いつどこで起こるかはわからないとしても、「あなたがたは私の杯を飲むことになる」という主の言葉を忘れることのないようにしたいと思います。人間的なさまざまな思いをもちながらも、それを正直に認め、日々悔い改めて、主イエスに従っていく。そういう姿勢を持ち続けていきたいと思います。祈ります。