澄んだ目で見続ける
2025年7月13日
イザヤ書49:14~21、マタイによる福音書16:19~24
関 伸子_牧師
マタイによる福音書第19節から21節を読むと、古代には財産がどのようなものであり、どのように保存されたかを忍ばせます。衣服にはシミがつき、穀物は腐り、地中に埋められた金銀は錆びたり盗難に遭うのです。そこで主イエスは地上に富を貯えることの虚しさを語って、「天に宝を積め」と語るのですけれども、実際に語られていることは、何を富とするかということが課題とされていることが、21節によってわかります。
主イエスの時代には貧富の差が激しく、富んでいる人は少数で、大多数の人々は貧しい生活をしていました。国家による社会保障制度や、福祉的な政策は何もない時代です。貧しい人々が生き延びる唯一の方法は、富んだ人の善意による施ししかありませんでした。私たちには、確かに、お金が必要です。しかしそのことは、私たち以上に神様が御存知です。まず真の神を神とし、自分の生活の中心にすえることによって、他のすべてのものが絶対化されないで、しかるべき位置を占めてきます。
主イエスはこのことを「目」のたとえで語ります。目は情報の入口であり、眼を向ける方向によって、私たちの関心のありかが分かります。「目が澄んでいれば」、「澄んでいる」単語の原義は「一重の、一度の」ですが、普通は「単なる」「簡明な」「すっきりした」。話が眼についてですので、「澄んでいる」と訳すのがすっきりしています。
ある人が、「澄んだ目とは、ただひとつのものを見ている目だ」と言いました。二つのものを同時に見ようとすると、私たちの目は濁るのです。何をまっすぐに見つめて生きるのか。何を信頼して生きるのか。目の焦点をはっきり神様に合わせる時に、私たちの財産も私たち自身も、神様のものとしてきちんと見えてきて、最もふさわしい形で用いられるようになるのだと思います。しかし、そのような澄んだ目をもつためにも、神様にともし火を灯していただかなければならないでしょう。その火を灯してくださるのが聖霊であると思います。私たちを内側からしっかりと支えてくださるのです。この火を消さないでしっかりともち続けることによって、神御自身が、私たちの目を澄ませてくださり、私たちの心も身体も内側から清めてくださることを信じて歩みたいと思います。
しかし、経済生活の問題は私たちにとって身近で、しかも重要な問題です。富みに頼ることをやめて、神に頼っていれば本当に大丈夫かという疑問は常に起こることです。そこで、主はそのような問題を先取りして25節から34節で論じておられます。そこでイエスが強調しておられるのは「思い煩うな」ということです。ここには「思い煩い」ということばが7回も用いられています。「心配」とも訳せるこのことばは、心がいろいろな方面に分かれ混乱することを意味しています。イエスが「思い煩うな」と言われたのは、神を信頼している者は、すべては神が御存じで、与えてくださるのだから、神によって心が統一されており、混乱することはないと知っていたからです。ところが、神を信じないと、あれも、これもと、次から次へと心が分散して、ますます混乱してしまいます。こういうときにこそ、もう一度主イエスの言葉に耳を傾けてみる必要があるのではないでしょうか。
主が、天の宝、地上の宝について語られる時、「自分のため」という言葉を、くり返しておられることも忘れることは出来ません(19、20節)。他人のため、神のため、というのではないのです。私たち自身が生きるためにこそ、「天に宝を積む」のです。天を仰ぐのです。何が見えてくるでしょう。何に目が向くでしょう。何を見続けているのでしょうか。主は問われる。ひたすらに、マンモンに対して信頼のまなざしを向けていくことによって、あなたがたの生きる思い、生きるまなざしが作られていくのか。それとも、天、わたしがそこから来たところ、そこに住んでおられる、わたしの神に対する信頼によって、あなたがたの心が作られ、あなたがたの肉体を含む、生活の道が作られるのか。
この問いは、こうも言い換えられます。私たちの心が、日頃、何によって捕らえられているか。あるいは何にとらわれているか。この捕らえられているという言葉で思い起こすのは、24節のみ言葉、「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」です。「仕える」、それは奴隷として仕えるということです。したがって、このみ言葉は、同時に、ふたりの主人に縛りつけられているわけにはいかないということです。何の奴隷になっているのか。何にふりまわされているのか。神によってしっかりと捕らえられ、これに信頼を寄せて生きているか、それとも、富によって捕らえられたままでいるのか、ということです。
主イエスは、十字架に死に、そして甦られました。そして、地上の生活を、天に連なるものとしてくださいました。天を仰ぐことを知って、自分が、どんなに大切なものであるかがわかるようになりました。天から来られたキリストは、私たちにとって、天にふるさとがあることを教えてくださいました。パウル・ティリッヒという神学者は、その説教の中で、何度も、神、それは私たちがそこから来て、そこへと帰っていく方だと説きました。自分のために正しく生きることと、この天のふるさとの神への信頼に行き、この神に仕えることを喜びとして、生きることとは別のことではありません。むしろ、ひとつのことです。そして、そこで、私たちは、地上の財産をも、正しく生かす道を知るのです。お祈りをいたします。