カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • み言葉によって新しくされる

    2025年9月7日
    ハバクク3:17~19、マタイによる福音書13:24~43
    関 伸子_牧師

     「天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている」(24節a)。直前で語られているように、ここでも天の国が種蒔きにたとえられています。今日の箇所を読むと、良い種をまくのは人の子イエス、畑は世界です。私たちが生きるこの世界はさまざまな問題に満ちていますが、イエス・キリストによって、良い種が蒔かれた良い世界なのです。前節までのたとえでは、種がまかれる土地の優劣に焦点が絞られていました。しかし、今日の箇所は毒麦のたとえです。

     「イエスは、別のたとえを彼らに示して言われた。『天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実を結ぶと、毒麦も現れた』」(24~26節)。ここで、天の王国は、自分の畑に良い種をまく人と、その人にかかわる出来事にたとえられています。僕たち、つまり、わたしたちは、「畑に良い種をまいたのではないか、神さまはわたしたち人間を御自分の姿に似せてお造りになったのではないか、それなのに、どうしてこの世にこんなに多くの悪がはびこるのだろう」、こう言って嘆き、いぶかるのではないでしょうか。この毒麦のたとえは何を意味していたのでしょうか。弟子たちもいろいろ考えたでしょうけれども、この考え落ちはなかなか難しく、ついに解けなかったものとみえて、イエスに説明を求めています。

     今日の箇所を読み進めると、麦と毒麦との共存ということは、耐え難いことかもしれません。「麦」は、「小麦」(直訳)のことであり、小麦粉に酵母を入れてパンが作られました。パンは当時の人々の主食ですから、この畑はその所有者にとって極めて重要なものです。そこに「毒麦」の種が敵によってまかれました。毒麦は、それ自体には毒はありませんが、苦(にが)みがあるとされ、毒性の菌が付きやすいとされています。この毒麦がまかれた時期は、雨季の始まる秋以降でしょう。

     教会はよく箱舟にたとえられます。箱舟は、神を信じない人びとが滅ぼされる大洪水の中で、神を信じ、正しい人であったノアと、その家族たちが、入り込むことができた安全な舟でした。箱舟の内と外では、まるで世界が違ったのです。中には、神を信じる正しい人がおり、外には神に審かれる不正な人がいたのです。教会はしばしば、自分たちを箱舟に生きる者としたのには、そういう思いがあったかもしれません。この主の譬えで言うと「毒麦」は箱舟の外に生えるのであって、箱舟の中に生えてくるようであったならば、これは教会の名に値しない、と考えるのです。ところが、このように、教会を箱舟とする考え方は、この毒麦の譬えについて語る説教者がしばしば思い起こすことなのです。しかし、箱舟の中にも罪は宿ります。

     伝道者だけではありません。教会を訪ねて、一所懸命、道を求め、洗礼を受け、最初の間は教会に喜びを見出し、ああ、教会はすばらしいところだと思い込んでいる人が、やがて「教会もまた世間と同じだ」、と思うようになるのです。「いや、世間よりも、もっとひどい」など、ということまで言うようになるのです。マタイの教会の体験は、おそらく、それであったに違いないと思うのです。

     この畑を持つ主人の僕たちが、主人の所に来て、毒麦の報告をしました。敵が毒麦をまいて行った時は、僕たちも寝ていたのでしょう。「ご主人様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どうして毒麦が生えたのでしょう」(27節b,c)。これがしもべたちの一つ目の問いです。

     僕たちは、「では行って、それを抜き集めておきましょうか」と言います。これが僕たちのもう一つの問いです。正義感に満ち溢れた僕だと思います。しかしその僕に対して、主人は何といったでしょうか。この答えがユニークなのです。

     「刈り入れまで両方とも一緒にしておきなさい」と主は言われます。主人は、「行ってそれを抜き集める」、剣をふるうことを否定していません。ただそれは、このたとえの終わりで、収穫の時、つまり世の終わりになされることです。育てた農作物を借り入れる収穫は夏前であり、主人は麦と毒麦の違いが明白になるその時まで、毒麦の除去を差し控えました。そして、毒麦の存在が十分明白になると、まず最初に、それを除去して、焼き尽くして、消滅させます。

     一方、麦は最後まで十分に成長させた後、主人の倉の中に納められます。この時、洗礼者ヨハネが語ったように、麦のもみ殻も同様にして取り除かれて焼き尽くされるでしょう。ここには最後の時、神の最後の審判が記されています。わたしたちの判断は、とかく誤ります。

     私たちは毒麦らしき人物をいくらでも数えることができます。そして、いま毒麦だと決めつけている人も、神の愛の中にすでに捕らえられているかもしれないことを、私たちは忘れるのです。主イエスは、ご自分を十字架につけた人々のためにさえ「彼らを赦してください」と神に祈ったのです。毒麦が麦に変えられる日がくる。誰も引き抜かれない日が来るのです。神が勝つ。主イエスは、私たちに、「裁きは私がきちんとするから、あなたたちはあわてるな。自分でさばきをくださそうとすると、間違ってよけいに大変なことになる」と言われます。そう言いながら、ご自分も忍耐をもって、命をかけて、私たちが悔い改めて、キリストの弟子になることを待っておられるのではないでしょうか。

     したがって、「耳のある者は聞きなさい」(43節)という言葉が、ここでも非常に重要な意味を持ってくるのです。神が勝つのです。悪魔から人々を解放することによってです。この恵みの真理に、私たちは到達したいと願います。祈ります。