カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 私たちの希望

    2025年9月14日
    哀歌3:18-24、ローマの信徒への手紙5:1~5
    宮城 献_牧師

     現在プリンストン神学校で学ぶ私は、渡米して5年になります。この夏の一時帰国は、5年間の日々を振り返る機会となり、その中で与えられたテーマが「希望」、そして聖書箇所が哀歌3章でした。

     以前、神学校のチャペルで韓国人の先輩が「放蕩息子のたとえ話」から説教し、「失われたものが見つかる喜び」について語りました。彼はチャプレンのインターンをする病院のチャペルでも同じ説教して、聴衆に「何か大切なものを失くした経験はありますか」と問うと、ある婦人が「私は自分自身を無くしました。そして、まだ見つかっていません」と答えました。その言葉に、先輩はハッとさせられました。先輩は、アメリカで生き残るために必死に学ぶ中で、留学以前の自分を見失ってしまったと気づいたからです。そして私もまたハッとしました。この5年間、アメリカでサバイブするために死に物狂いで勉強する日々の中で、自分自身が大きく変わってしまい、自分自身を見失ってしまったと気づいたからです。その時は具体的に何を失ったのか分かりませんでしたが、この夏、日本に帰国してようやく気づきました。私が失ってしまったもの、それは「希望」、もっと正確に言うならば、「神の希望を待ち望む歩み」そのものだったのです。

     さて、今日の哀歌の御言葉3:18で、詩人も「主から受けた希望」が消え失せたと語っています。哀歌は、エルサレム崩壊という悲劇を体験した詩人が、その壮絶な苦しみと絶望を詠んだ嘆きの詩です。詩人は自らの苦難を神から与えられたものとして受け止め、嘆きの頂点で「主から受けた希望が消え失せた」(3:18)と叫びます。しかし、この絶望の極みで詩人の態度は180度変わります。「しかし、そのことを心に思い返そう。それゆえ、私は待ち望む」(3:21)。彼は失ったはずの希望を再び待ち望むのです。この劇的な転換は、まさに絶望のただ中から希望が生まれる「希望の瞬間」を描いています。プリンストン神学校の哀歌の専門家は、これらの箇所では「痛みの中から希望が生まれる」という聖書の教えが描かれているというのです。

     日本での神学生時代、私は神学者モルトマンの「希望の神学」に感銘を受けました。彼にとって希望とは「神の約束の真実さ」に根差すものです。聖書を通して約束に真実であり続けた神は、未来の約束にも真実であり続ける。この神の約束の成就を信じ、待ち望むことこそが「希望」だと彼は語ります。彼の神学の根底には、彼自身の壮絶な体験がありました。第二次大戦で捕虜となり、収容所でキリスト教に出会った彼は、「自分の生の確かさが崩れる経験のなかで、キリスト教信仰における新しい生の希望を経験した」と証ししています。彼もまた、哀歌の詩人のように、絶望の淵から希望を与えられた一人でした。

     けれど、私は、この希望を、この5 年間で見失っていました。渡米当初のプレッシャー、プリンストンでの厳しい競争の中で、私はとにかく必死に、不安に突き動かされながら日々をサバイブしていました。不思議なことに、やがてその生活にも慣れ、ある程度の結果を出せるようになると、私は傲慢にも「自分の力で何とかなる」と思うようになっていたのです。

     神の希望を待ち望むことを忘れ、自分の力に頼り切っていました。その傲慢は、この夏のビザ更新の出来事を通して打ち砕かれました。ビザの更新が保留となり、アメリカに戻れないかもしれないという絶望的な状況に陥り、「自分自身への失望」を味わいました。しかし、まさにその絶望の極みで、私は気づかされたのです。「もはや自分の力ではどうにもならない。だからこそ、神の導きに委ね、神に期待するしかない」と。自分の道が閉ざされるかもしれないという辛さの中で、私は再び「神様の希望を待ち望む」という心を取り戻しました。5年間忘れていたこの大切な歩みを、悲しみの中でも思い出すことができたのは、大きな恵みでした。

     さて哀歌の詩人は、3章24節で、「「主こそ私の受ける分」と私の魂は言い/それゆえ、私は主を待ち望む。」と語っています。とても興味深いのですが、この「主こそ私の受ける分」とは、レビ族を除いたイスラエルの全部族の土地が「割り当てられた」その伝統に由来するものだそうです。つまり、イスラエルによってカナンの土地とは、神さまが立てられた約束に従って、神様が出エジプトを導き、イスラエルに与えられた土地です。その約束の土地が嗣業としてレビ族を除く全ての部族に神様から恵みとして与えられました。だから詩人は、苦難を与える主が、同時に恵みを与える方でもあると知っていたため、未来を信じ、希望を待ち望むことができたのです。

     苦難も希望も、共に神に由来します。私たちは時に、神様がなぜ悲しみを与えるのかと嘆くことがあり、それは自然なことです。しかし、その悲しみのただ中にあっても、私たちは恵みの神様を信じ、主の希望を待ち望むことができます。人生に苦労はつきものです。そのような時にこそ、神様に嘆くと共に、「『主こそ私の受ける分』」である恵みの神様を思い起こし、「それゆえ、私は主を待ち望む」と告白する、希望の信仰者でありたいと願います。