思いきり泣ける場所がここに
2024年7月28日
詩編56:9~10、ルカによる福音書17:36~50
関 伸子牧師
東小金井教会は1964年7月26日、中町の借家で第1回礼拝(出席11名)をささげてから60年経ちました。2020年以降、コロナ禍を経た今も、欠かさず礼拝がささげられてきたことを感謝しつつ、今日は宣教60周年記念礼拝をささげています。
ルカによる福音書第7章の最初に百人隊長の僕のいやしの物語が記されており、次にナインの町におけるやもめの一人息子のよみがえりという主イエスの奇跡が記されています。やもめの一人息子のよみがえりの物語ではイエスがやもめのところに駆けつけて、「もう泣かなくともよい」と言ってくださる。そして、泣かないですむようにしてくださいました。
詩編第56編9節に「あなたは私のさすらいの日々を数えてくださいました。私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。あなたの記録にはそうするよう書かれていませんか」とあります。ここには涙の歴史が記されています。教会の宣教が始まって60年、多くの方がここで信仰を持って生き、御言葉に覆われて、悲しい時、辛い時に流した涙を神様は記録してくださっている。私たちもまた、小さな教会の歴史の中のひとりとして生きて死ぬ。思いきり泣ける場所がここにあるのです。
ルカによる福音書第7章36節以下に出てくる女の涙、この涙を主イエスはふき取ってはおられません。この女に「泣くな」とはおっしゃらなかった。そうではなくて、泣くままにさせられた。その涙を受け入れておられます。この涙を喜んでおられます。
ある日のこと、シモンという名のファリサイ派の人が自分の家にイエスを食事に招きました。「食事の席に着いておられる」というのは直訳すると「横になる」ことであり、当時、正式な食事をする時は、長いすに横になり、左ひじを突いて、右手で食事を口に運んでいました。こうして、イエスはこのファリサイ派の人とも最も親密な関係を持っていました。
罪人であった女は、イエスの後ろからイエスの足元に近寄り、自分の涙でイエスの足をぬらし、それを自分の頭の髪の毛でぬぐい、イエスの足に口づけをし、高価な香油を塗った。これらの行為は、この女がイエスのもとで最大限へりくだっていたことを示しています。また、イスラエルの民の間では、女性が人前で髪をほどくことは恥ずべきことだとされていましたので、女のこの行為は相当な勇気を必要としたはずです。食事を共にしたファリサイ派の人は、「それは罪の女なのに」と、その罪が解決されていないことを問います。
シモンの内心を見抜いたイエスは、シモンに対してひとつのたとえを語ります。5百デナリオンの借金を赦してもらった者と、50デナリオンの借金を赦してもらった者とでは、「どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(42節)と問う。もちろん、シモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(43節)と、答えました。主イエスは、その答えに同意した上で、女の方を振り向いて、シモンに「この人を見ないか」と言われました。ここで使われている「見る(ブレポー)」は、シモンが女とイエス様の間に起こっていることを「見る(ホラオー)」とはまるで違います。シモンは、現象だけを見る。そして、イエスさまを値踏みしている。それに対して、イエスさまはこの女の行為が何を表しているかを深く読み取っています。
そして、シモンに「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は愛することも少ない」(47節)と言います。神の前にさばかれなければならない私たちが、主イエスが死んでくださることによって、神の前に義とされた。罪の女である者が、罪の女であったことが過去のものとなる世界が来たのです。その人の罪はゆるされた。そしてゆるされた人として、その人を愛していくところに私たちの生き方があります。信仰とは、イエス・キリストによって贖われたことを信じるがゆえに、神のために栄光をあらわすという積極的な行動、姿勢が当然生まれてくるのです。
罪人のあるところ、そして罪の告白のあるところ、神の赦しがあります。そこにイエス・キリストが十字架を背負って立っておられる。そこで、この罪人を赦すお方の姿が大きくなります。その次に、その方から愛をいただく信仰がわたしたちの中に芽生えるのです。
「そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は、一体何者だろう』と考え始めた。イエスは女に言われた。『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48~50節)。「罪まで許すこの人は、一体何者だろう」とこの家にいる人々は考え始めました。
50節は「あなたの信頼があなたを救った。平安にお行きなさい」とも訳せる。赦しは神から無償で与えられる。すなわち、赦しは、神の憐れみに満ちた愛からくる。この愛が先にあって、人間の悔い改めを呼び起こします。しかし、主イエスに「安心して行け」と言われて、人はどこへ行くのでしょう。女が受け入れられる場所は町中であり、女が必要としているのは、赦された者の共同体であり、罪人を赦す共同体なのです。この物語は教会が必要であることを語っています。教会は「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」、この言葉を語り続ける。そのことを生き続ける。この世界を救うのは、このキリストの愛に富むことです。教会は貧しいものです。無力です。しかし、その貧しさのなかで、このキリストの愛に富むことは、ゆるされていると私は思います。そして、それ以外の豊かさはないのです。お祈りをいたします。