天の国の門を開く
2025年3月23日
ヨブ記1:1~2、マタイによる福音書16:13~28
関 伸子牧師
みなさんは、聖書に登場する人物の中で最も人気のある人は誰だと思いますか。やはりペトロではないでしょうか。ペトロの魅力は、良くも悪くも、実に人間くさい、という点にあるように思います。福音書冒頭の主イエスが弟子を選ぶ場面では、主の招きに従ってすべてを捨てて颯爽と旅立つペトロ。熱心ではあるけれど、しばしば主の御心を理解しそこなうペトロ。イエスが十字架にかけられる最後の夜に「自分だけは裏切らない」と誓っておきながら、たちまち「そんな男は知らない」と断言するペトロ。そういう自分のダメさかげんに愛想をつかし涙を流すペトロ。そして復活の朝、主の再度の招きと委託に奮い立つペトロ。ところが、それにもかかわらず、またまた失敗を繰り返し、パウロから非難されるペトロ。そのような典型的なダメ人間でありながら、なおも憎めないペトロが、この主イエスの受難予告の場面でも中心的な役割を演じています。
主は、「人々は、人の子を何者だと言っているか」と聞かれました。かつて人々は、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(11:19)とか、権力ある人々にとっては、律法を破り、「神をけがしている」(9:3)ものです。好感を持つ人々もいます。人々がイエスのことを、洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤといった預言者たちと同定していることは必ずしも間違ってはいません。しかし、イエス御自身は自らが人の子であると同時に、神の子でもあり、そのような者として父なる神の栄光を帯びて天使たちと共に再び到来することを知っていました。そして、イエスは、弟子たちに対して多くのことを直接教え、多くの業を示して、自らが神の子であることを証ししてきました。そこで、イエスは弟子たちに信仰の告白を求めました。
ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)と告白します。主イエスは、神の教えを聞いたり、教えたりする宗教家ではなく、神から遣わされた神の子です。その告白をイエスは求められました。その告白をペトロが代表して行ったのです。
主イエスはペトロに、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。・・・・・・私はあなたに天の国の鍵を授ける」とまで激賞されました。「バルヨナ」とは、「ヨナの子」という意味であり、ペトロの元の名です。ここでペトロの元の名「ヨナの子」をイエスが使うのは、ペトロが神の子ではなく、人の子であることを明示するためです。ヨナとは人間の名前であり、その「ヨナの子」も当然人間です。そして、この人間ペトロは、天の父なる神から明らかにされない限り、人の子イエスが神の子でもあることを知ることはできないのです。天や神に関することを教えることができるのは、天におられる父なる神のみであり、人間ではありません。
「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(18節)。主イエスはこのようにまで言ってくださる。ところが、後半になると、一転して、「サタン、引き下がれ、」という最大級の叱責を浴びせられます。イエスは、弟子たちにご自分の後ろに付いて来るようにと命じましたが、それは、イエスが救いの業を成し遂げる際に主導権を握っているためです。そして、この救い業を成し遂げるためには、権力者たちに殺されなければならないことが神によって定められていました。しかし、こうした神の計画を考えずに、専ら人間的な推測のみでイエスの前に立ってイエスを導こうとする考えは、神の計画の邪魔をするサタンの計略と同じです。確かに、ペトロの「あなたこそキリスト、生きている神の子です」という告白は、教会の基盤となる岩でしたけれども、人間的なことばかりを考えるのなら、この岩はつまずきの岩となるのです。逆に、神がイエスに定めた計画は、多くの人々にとってつまずきであるが、それにもかかわらず、人々はイエスの後ろからイエスに従い続けることによって、共に苦難の後に永遠の命を受け継ぐことができるのです。主の受難予告はそれほどまでにペトロの予測を越えた信じ語り出来事だったのです。
それから主イエスは弟子たちにこのように言われました。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」(24b~25節)。さらに、イエスは弟子たちに、自分を捨てるだけでなく、自分の十字架を担うことを要求します。そのようにして初めて、弟子たちはイエスと共に復活の恵みにもあずかれるのです。
それにしても、このサタンと呼ばれたペトロがその生涯の最後まで、この最大級の叱責を投げつけた方から離れ去ることなく生きたということもまた事実です。主イエスは、「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と言われました。あなたがする、この告白の上に、と言われたのです。そこに「私の教会」、イエス・キリストの教会が立つのです。死の国の門もこれに打ち勝つことはないのです。だから悪魔は決してあなたに勝つことはないでしょう。「私が世に勝っている」と言われる主イエスが共におられるからです。
ペトロの人生はその信仰ゆえに、そしてまたその弱さのゆえに「キリスト者として苦しみを受ける」(ペトロ一4:16)一生でした。彼もまた自分の十字架を負って生きた人でした。 こうしたペトロの姿こそ、私たち信仰者の「模範」にほかなりません。主イエスは、その岩の上に「私の教会を建てる」と言われ「天の国の鍵を授ける」と言われました。教会は、そのように主イエスから地上における天国への入口としての大切な使命を与えられていることに畏れを持って、宣教のわざに励んでいきたいと思います。祈ります。