カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 私たちを真実に生かす王

    2025年4月13日
    哀歌45:15~22、マタイによる福音書127:27~44
    関 伸子牧師

     主イエスはピラトの裁判の後、兵士たちに引き渡されました。彼らは告訴理由となっている「ユダヤ人の王」としての称号を盾に取り、イエスを「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱します。

     彼らはイエスに自分たちの「深紅の外套」(28節)を着せました。マタイがわざわざ「外套」という語を用いたのは、ローマの兵士は普通この語で表現される外套を着ていたからです。「深紅」が鮮血を象徴することを考慮すると、この光景はイエスがこれから十字架上で人々の罪のために深紅の血を流すことを予兆していると言えるでしょう。王は通常、頭に冠をかぶり、手には王権の象徴である笏を持っていましたので、兵士たちはイエスを王に仕立てて、あいさつをし、遊んでいたのです。イエスは「ユダヤ人の王」、これを自称しているというのが、祭司長や長老たちによる、ローマ総督への告訴理由だったのです。とげを持つ茨は不毛と呪いの象徴であり、兵士たちはイエスに茨の冠を載せイエスを侮辱しました。こうして十字架上で茨のとげの突き刺さったイエスの頭から、また、釘づけにされた手足からは、ぶどう酒のような深紅の血が流れたのです。葦は風に揺れる葦は頼りないものの象徴です。兵士たちは、イエスに葦を持たせることで王のように装わせつつも、イエスを無防備で頼りない男だと見なしたのです。

     兵士たちは、今死にゆく人の衣をくじで分け合います。人が苦しんでいるところで、誰がよい方を捕るかという取引が行われている。これこそ自己中心な人間の罪の現実でなくて何でしょう。そして、その時、人々のののしりの言葉の中にも、イエスの救い主としての御姿が、何とよく現わされていることでしょう。「他人を救って、自分を救うことができない」、これこそ、真の救い主イエスの姿なのです。

     それから、イエスを十字架につけるために官邸から連れ出しました。祭司長、長老、律法学者たちは、イエスを死罪にすべく裁判にかけます。その罪状は、神殿に対しての冒瀆、神の子キリストであることを自称したというものでした。大祭司はそこで死刑を宣告しますが、死刑執行の権限を持たない彼らは、ローマ総督ピラトにイエスを訴えることを決めました。そして罪状を変えます。神聖を汚したというような宗教的罪ではローマの法律には触れないからです。罪状は政治的なものでなければなりません。それが、「ユダヤ人の王」であると主張しているというものでした。ピラトは、ユダヤの治安維持のために、彼らの顔色をうかがうばかりで、イエスに対して興味以上のことを示しません。そして裁判後は、兵士たちがイエスの罪状を嘲りの材料に使います。このように描くことによって、福音書記者マタイは、真のユダヤ人の王イエスが、いかに悲惨な死を遂げていったかを描こうとしています。

     「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた」(32節)。シモンという名のキレネ人はおそらく北アフリカの出身です。しかし、厳密に言えば、その土地の人ではなく、移り住んだユダヤ人の家系の出身であると思われるシモンという人が、主イエスの十字架を無理に負わせられたと、それだけ書いてあります。もしかしたら、イエスとのこのような出会いを通して、シモン自身がキリスト者になり、息子も彼を通してキリスト者になったのかもしれません。とにかく、十字架を背負ったことは、シモンにとって忘れ得ない経験となったことでしょう。当時の習慣では、囚人は十字架の横木を自分で背負って行かなければなりませんでした。

     やがて、イエスの一行はゴルゴダと言う場所に来ました。兵士たちはイエスに苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしました。これは苦しみをやわらげるための薬が入ったぶどう酒でした。イエスは十字架の苦しみを味わい尽くすために、それをなめただけで飲みませんでした。毅然として十字架に向かっていくイエスの態度が示されています。

     十字架につけられたイエスの頭上には、「これはユダヤ人の王イエスである」(37節)という罪状書きが掲げられました。その時、他の二人の強盗も十字架につけられて処刑されました。道を行く者も、ユダヤ人の指導者たちも、十字架につけられた強盗までも、イエスをののしりました。詩編第22編7節を思い起こします。「だが私は虫けら。人とは言えない。人のそしりの的、民の蔑みの的」。イエスは、何と言ってののしられても少しも反論しませんでした。罪人の罪を身代わりに背負って、その刑罰にじっと耐えていたのです。

     マタイによる福音書第1章22,23節で、イエスが「インマヌエル(神は我らと共におられる)」とあり、この福音書の終わり、第28章20節で、イエスは「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束します。これは、受難と復活のイエスが共にいるという約束です。主イエスは、わたしたちと共にいて助けてくださる、苦しむ神として、人を助ける力をお持ちなのです。「インマヌエル(神は私たちと共におられる。)」、このことが、十字架の上で成就したのです。

     私たちも、突然、不当な重荷を負わされることがあります。不当な辱めを受けることがあります。それはキリストの追われた不当な重荷、苦しみ、辱めのほんの一端を、共に負うことであるのかもしれません。

     ゴルゴダの丘に着き、キリストに十字架が戻された時、シモンの肩から十字架がおろされました。私たちの負う重荷と辱めも一時のものにすぎません。やがて主イエスがそれを私たちの肩からおろし、ご自身が代わって負ってくださるからです。お祈りをいたします。