だいじょうぶ!
2025年4月27日
マタイによる福音書第28章16~20節
唐澤 健太_牧師(国立のぞみ教会)
「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように告げなさい。そこで私に会えるだろう」(10節)。マグダラのマリアは復活の主に言われた通りに弟子たちに告げたのだろう。11人の弟子たちはガリラヤに行き、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)。注解書などを紐解くとギリシア語の文法では11人の中の何人かが疑ったというのではなく、全員が疑ったという意味になるそうだ。主イエスに会い、ひれ伏しているのに疑っている姿は矛盾しているように思う。しかし、よく考えるとそれは私たちの姿ではないだろうか。私たちも礼拝しながら疑いを抱える者である。
十字架を前にしては逃げ出し、復活の主に出会っても疑う弟子たちに、主イエスは「近寄って来て」言葉をかけてくださった。原文では、前の文章と「すると、そこで」とつながっている。イエス様は疑う弟子たちであることを知った上で、主イエスは、「近寄って来て言われた」のである。この主イエスの何気ない動きの中に、わたしは主イエスの弟子たちに対する熱い想いが込められているように思う。何のいさおもない、十字架を前にすれば逃げ出し、復活の主にお会いすれば疑う弟子たち。近づいてもらえる条件もない。しかし、イエス様がただただわたしたちを愛し、赦してくださり、近寄ってくださる。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださるのだ。
「いつも」とは直訳すると「すべての日々」。あなたの「すべての日々」において主は共にいてくださる。喜びの日も、悲しみに震える日も、怒りに支配される日も、痛む日も、病の中にある日も、困難に直面する時も、泣く日も、絶望し神などいないと嘆く日も、教会のメンバーが少なくなり、これから教会はどうなってしまうのだろうかと不安でいっぱいになってしまう日も、そしてこの世での生を終えて「終わりの日」を迎える日も、私たちの「すべての日々」において主は共にいてくださる。それが主イエスの約束であり、マタイ福音書がクリスマスの出来事から復活の出来事まで一貫して語るインマヌエルという「よき知らせ」である。主は私たちといつも共にいてくださる。だから私たちは何があっても大丈夫なのだ。
私たちは、この主の「言葉」を主の約束を土台として歩むのだ。天と地と一切の権能を授かった命令者であり約束者である主イエスに従って生き始める。ここに私たちが疑いを克服していく道があるのだ。マタイ福音書に描かれる復活の主イエスは「疑う者たち」の疑いを晴らすために、復活された時の状況などを細かく語ることをしない。約束と命令を告げるだけだ(ヨハネ福音書やルカ福音書と比べてみよ)。つまり、この派遣と約束に生きる時に、復活の主が確かに知ることができるとマタイは告げているのだ。
主イエスと弟子たちが出会ったのはガリラヤの「山」だ。マタイ福音書にとって「山」はとっても重要な場所だ。山上の説教がその代表だが、「山」というのはイエス様の言葉が語られ、そして教えられる場所なのだ。山とは、神の言葉を聞くことによって自分の人生や世界の問題を見直すことができる「高み」だ。じつはガリラヤには目ぼしい「山」はないらしい。それは問題ではありません。日々の生活を、神の言葉の高みから自らを見直す所がイエスが弟子たちに指示していた山なのだろう。
東小金井にも「山」と呼べるような山はない。しかし「東小金井教会」という「神の言葉を聞く高み」があるのだ。小さな群れで、小さな山かもしれない。しかし、日曜朝のこの時間、信仰の目で見るならばこの東小金井教会は「主イエスの指示された山」になるのだ。
私たちはこの山に登り、そこで、復活の主イエスに会い、ひれふし、その言葉を聞くところから世界や人生を見直すのである。私たちも「山」で復活の主に出会い、礼拝しているものだ。そして、そこから派遣されるのである!
「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令は、キリスト教が絶対であり、すべての人を強制的に改宗させよということではない。そのような負の歴史を教会が抱えることを十分踏まえ、悔い改める必要がある。「すべての民を弟子にしなさい」というのは、あらゆる違いを超えた主イエスの愛がすべての人の胸にしみ入り、溢れるようにしなさい、ということだ。そのことに仕える時に、どんな困難があっても、時には失敗し、挫折するようなことがあって、教会は、この主イエスに委ねられた務めを今日も、これからも志すのです!「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)。この主の言葉を聞いて、この約束を聞いて、私たちもここから派遣されていこう!