しるしより確かなこと
2025年5月4日
列王記上417:17~24、マタイによる福音書12:38~45
関 伸子_牧師
「先生、しるしを見せてください」。ユダヤ人は、しるし、すばらしい出来事、目をみはるような神の子としての証拠を求めます。救い主メシアが到来するときには、天にも地にも、驚くべきしるしがあると信じていたからです。パウロは、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(コリント一1:22)と言いました。もしある地上の根拠で信じているなら、それは信仰といえるでしょうか。
主イエスは律法学者とファリサイ派の人々の問いにおもしろい返答をします。「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(39節)。彼らの期待しているような「しるし」はないけれども、「しるし」が全くないわけではないというのです。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。ヨナは宣教のため神からニネベに派遣されますが、それに従おうとしなかったので、海上で嵐に遭い、結局大魚に飲み込まれ、その腹の中で三日三晩を過ごしました。ヨナが大魚の腹から出てニネベに行き、人々に神のことばを伝えた時、人々は悔い改めましたが、律法学者やファリサイ派の人々はヨナの説教にまさるイエスの説教を聞いても、少しも信じようとしませんでした。
「邪悪で不義の時代」に語られたこのイエスの言葉は、私たち自身に語られている言葉でもあります。私たちもしばしば疑いにとらわれ、信仰がくじけそうになります。そして私たちも、外からくる確かさを求めようとしています。しかし自分自身を賭(と)すことなしに保証される信仰などどこにもありません。「信じる」ということはしるしによらずに、キリストに従うことを決断することです。まして目に見える形での見返りを求めることは私たちの信仰ではありません。
しかし、イエスは別の意味での「しるし」について語ります。「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(40節)。ヨナが大魚の中に三日三晩いたように、人の子であるイエスもここから地の中心に三日三晩いることになります。これは明らかに、イエスが十字架上での死の後、三日目に甦らされるまで墓場にいることを指しています。せっかく「しるし」を上げるならば、「ヨナが大魚から三日目に吐き出されたように、人の子も三日目に復活する」という出来事を「しるし」として挙げられました。
この「しるし」は逆説的です。イエス・キリストが十字架にかけられた時、人々はからかい半分に「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)と「しるし」を求め明日が、主イエスは、十字架から降りてもせることによってではなく、逆に、十字架から降りず、そのまま陰府にまでくだることによって、神の子であることを示されたのでした。ヨナは自分の罪のために閉じ込められましたが、イエス・キリストは人の罪のために大地の中(陰府)にまでくだられたのでした。
主イエスが復活後、裁きの日に父なる神の主権の下で、ニネベの人々や南の女王、つまりシェバの女王、彼女は知恵に満ちあふれたソロモンの名声を聞いて、わざわざその当時、知られる限りの世界の果てにあったシェバの女王がやって来て、ソロモンの知恵を聞いて、驚き恐れ、謙遜な思いを抱いた物語です。こういうニネベの人々にしても、南の女王にしても、そこには、へりくだる思いがあったのです。むしろ、自分の汚れを知り、その汚れを清めることができるのは自分ではないことを悟るのです。まさに、そのところで、この南の女王も、ファリサイ派に裁かれる存在のようでありながら、ファリサイ派の人々を裁く立場に立ちうるのだと、主イエスは言われるのです。
この世界のどこを探しても、最後まで存続する完全な保証などは与えられません。この地上では、すべてのものに終わりがあり、すべては死にのみこまれてしまうからです。イエスが救い主であるという事実は、その十字架と復活以外に、信ずべき根拠はありません。
わたしたちは聖書を通してイエス・キリストに出会います。わたしたちにとって福音書の歴史的イエス(物語のイエス)が信仰のキリストになるのは、キリストとの出会いの出来事が生じた時におこることです。ちょうどサマリアの女が、水を所望したユダヤ人である旅人イエスに出会って問答を交わすうちにキリストであることを知ったように聖なる霊はあふれ出る水によって渇いた人に安らぎを与えます。43節を読むと、汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、渇いた場所で安らぎを見出せないので、元の家に戻ってきました。すると自分の家は自分がいないことによって美しく整えられているのを見ます。汚れた霊はその存在そのものによってその場を汚すのです。しかし、この状態は聖なる霊がそこに住まない限り長くは続きません。主が、私たちを愛してくださり、主が清められた心の中に住む。どうも自分では、掃除がうまく行き届かなかったはずの私の心の中に、主イエスが住んでくださるのです。三日三晩死の中にあって、死と闘って、甦らされた、いのちの主が、私たちの中に住んでくださる。その主が勝利するのです。その時、私たちは、人生の困難に、打ち勝つことができるのです。
主は、生きておられます。主が十字架の、あの赦しの恵みをもって、私たちの中に住んでくださるのです。そして、私たちに言われます。「あなたがたが勝つのは、この手によるしかない。わたしの手によって勝つのだ。わたしの恵みによって勝つのだ。わたしの恵みを映す愛によって勝利するのだ」と。祈ります。