怒りをすてて
2025年7月6日
申命記26:1~11、マタイによる福音書5:21~26
関 伸子_牧師
マタイによる福音書が書かれた当時、マタイ教団は、明らかにユダヤ教のシナゴーグと対立していました。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5:17)という言葉は基本方針であり、この律法の先鋭化こそが、律法が本来求めているものです。
十戒の原文は単に「殺すな」とあるだけですが(出20:13、申命記5:17)、マタイはこれに「人を殺した者は裁きを受ける」という解釈を加えました。人々にとってこの掟が適用される犯罪行為は、凶器を使った殺人でした。神が大切にされるのは、生命だけでなく、それを含めた人のいのち全体(人格)なのです。
「しかし、私は言っておくきょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの日に投げ込まれる」(22節)。主イエスはここで、「怒る」ということを、とても真剣に、とても深刻に受け取っておられます。わたしたちは、案外、身近な人に対して、はげしく怒るものです。あかの他人や、自分に関係のない人には、あまり怒りません。ここには、「腹を立てる」「馬鹿」「愚か者」と、怒り憎しみがつのってゆくさまを示し、それに対する罰も、「裁き」「最高法院」「ゲヘナ」と段階的にきびしさを増してゆきます。怒りは小さいうちに消さないと、とてつもない大きな火事になると警告しているのです。したがって、このような怒り方をする人は、祭司長、長老、律法学者から成る最高法院で裁かれ、地獄の中へ投げ込まれるのです。
しかしどうでしょう。私たちが腹を立てる時には、誰でもそれなりに理由があるのではないでしょうか。けんかをする時には、双方に言い分があるのです。少なくとも当人にとってはそうです。現在、世界で起こっている戦争、対立もそうではないでしょうか。イスラエルにはイスラエルの、パレスチナにはパレスチナの言い分があるのです。だからもし、「理由なくして、腹を立てる者は」と書いてあれば、「これは自分のことではない。自分には理由がある」ということになってしまうでしょう。主イエスは、そのことをよく知っておられたのです。
次に、「祭壇に供え物をささげようとし、きょうだいが自分に恨みを抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って、きょうだいと仲直りをし、それからかえって来て、供え物を献げなさい」とあります。これまでは、自分がうらみ、怒り、憎んでいる場合ですけれども、これは逆に、自分が怒りの対象になり、うらまれ、憎まれている時をさします。わたしたちは人から打たれたとき、はじめて打たれることの痛みを知り、人からうらまれたとき、はじめてうらむことの過ちが分かるからです。
申命記第26章1節から11節は、約束の地で得た収穫を、土地を持たない異邦人や寄留者と共に分かち合いなさいという律法規定であり、マタイによる福音書第5章21節以下では、祭壇に献げものをするよりも先に、敵対するきょうだいと仲直りをするようにとのイエスの言葉を含んでいます。分かち合うことは、私たちがこの世界にあって誰かと共に生きることを知るためのもっと積極的な生き方です。そして、そこに豊かな恵みが注がれていることを私たちは知ることになります。今日の社会において多くの人々が深い孤立感を抱えています。そのような状況において私たちは、分かち合うこと、共に担うことを本気で考えるべきではないでしょうか。
「まず行って」というのは私に語られている言葉なのです。この「まず行って」こそ、神のなさり方なのです。他者がくるのを待たずに、先にその負い目を負う、これか神のなさり方です。この神の先手こそ、神の愛にほかなりません。神は私たちが他者から離れて、無関心の中に自分の正しさを誇ることを良いとはされません。何よりもキリストの十字架は私たちの間の隔ての中垣を取り除くことでした。キリストによる神との和解は、同時に、疑いようもなく、私と他者との和解として実現されたのですから。
ここで、この「訴える人」とは「敵対者」(直訳)であり、この敵対者とは、人がイエスの言葉を守らない限りイエスと敵対しているという意味ではイエス自身でもあり、「裁判官」とは神であるとも考えられます。イエスは、私たちをその罪から救うために、私たちと共にいるのですけれども、イエスが私たちと共にいる間に、イエスと和解をしないならば、イエスは神に私たちを引き渡し、私たちはイエスによる調停のない裁きの場へと引き渡されるのです。
私たちの世界は、神の造られたひとつの大きな家です。それにもかかわらず、この世界には大きな対立、小さな対立があり、戦争や紛争が終わりません。それが表面化しないところでも、力の支配と抑圧があります。私たちは自分が正しいと信じる道を生きる時、まわりの世界がそれを助けてくれるはずだと思い込みます。従って、自分の思いが達せられないと、まわりの人のせいにします。世間がこうだから信仰生活はうまくいかず、主イエスの命令に従い得ないと言い訳をするのです。しかしそういう生き方は主の欲するところではないのです。それは現実的な生き方でもありません。夢を見ているだけです。現実の世は私たちにさからいます。主にさからったように、私たちに手向かうのです。そこで主は、まさしくそこでこの世を愛しなさいと言われるのです。世にとびこむのです。どきにでもきょうだいを見いだすのです。そして私たちに先立って、主がこの世を愛しておられることを確認するのです。お祈りをいたします。