カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 神のふるまい

    2025年10月12日
    詩編90:13~17、テサロニケ二3:6~13
    関 伸子_牧師

     パウロはかつてテサロニケを訪問した際、信徒たちにキリスト者の日常生活について教え、またテサロニケの信徒への手紙一でも書き記しました。しかし、彼らの中には誤った終末信仰によって、艱難のゆえに彼らが熱狂的にキリストの再臨を待望し、日常生活の責任を疎かにして怠惰な生活をしている者がいるとの情報を得たので、パウロは再びその教えを厳しい調子でここに繰り返します。

     この手紙の中で、パウロがテサロニケのきょうだいたちにどうしても言っておくべきことがありました。「きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、私たちから受けた教えに従わないすべてのきょうだいを避けなさい」(5,6節)。「きょうだいたち」という呼びかけが怠惰な生活をしている人たちも含むサロニケ教会全体へのものであることは明らかです。

     なぜ、パウロはこのように命じているのでしょうか。「このような生活をしているきょうだいを避けなさい」「関わりをもたないようにしなさい」と警告しているのは、のような生活を当然のものだ、と見なす強い信念を持った人たちが教会を混乱させると考えているからです。

     パウロが信仰の指導者として「主イエス・キリストの名によって命じます」と言っているように、これは命令なのです。箴言は、「怠け者よ、蟻に学べ」(6:6-11)と教えています。パウロは、キリスト者が伝道者としてどのように生計を立てるべきかについてテサロニケのきょうだいたちに身をもって模範を示しました。パウロは、「私たちはあなたがたの間で、怠惰な生活を送りませんでした。また、誰からもパンをただでもらって食べたりしませんでした。むしろ、誰にも負担をかけまいと、労基し骨折って、夜も昼も働いたのです」(7,8節)と言い切っています。実にみごとな生活態度です。

     しかも、そうするほかに道がなかったとか、報酬を得る権利がなかったからそういうのではないのです。パウロの一行は世界伝道のための、最初にして第一級の伝道団であり、当然それ相応の報酬を受けてもよい人々でした。しかし、「私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちに倣うように、身をもって見本を示すためでした」(9節)と明言しています。今日、神の召命によってなされているはずの牧会伝道を、教会との単なる雇用関係か利害関係かのように考える向きがなきにしもあらず、ですけれども、私たちはパウロたちのこのような姿勢から大いに教えられるのです。

     パウロは諸教会に経済的負担をかけないために、天幕造りを職業として福音伝道を続けており、神から恵みとして無償で受けた福音を同様にして恵みとして伝えていました。パウロは、いわば命のパンである主イエスによって生きていたのです。
    またパウロは、「私たちは、『働こうとしない者は、食べてはならない』と命じていました」(10節)。このように言いながら、怠惰な者を厳しく戒めています。

     みなさんの中には「働かざるもの食うべからず」ということばを知っている方が多いと思いますが、パウロの言葉に由来することを知っている人は多くないかもしれません。マルクス主義者がこの言葉をこの箇所から継承したのは確かだと言われており、キリスト教神学者たちがこの言葉を忘れてしまっていたのも事実です。そして、マルクス主義者がこの言葉をふり向けた相手は失業者ではなく、自ら働かずに寄生虫のようにぼろ儲けをしている資本家とその背景に巣くう人々でした。

     「働かざる者食うべからず」、これは怠惰や誤った教えからくる間違ったキリスト者の生活を戒めたことばであり、いつの時代にも信仰者がしっかりと心に留めておかなければならないことです。神の恵みに生かされ、いっさいの思い煩いを主にゆだねたキリスト者は、何もせずただ無為に説きを過ごすのではなく、むしろ明日のことを心配せず、与えられている今日を背精一杯生きて主のわざに励むのです。

     今日、教会の状況は、テサロニケ教会のそれとは大きく異なっています。「怠惰な生活をする者」がいても、単なる「仕事嫌い」「変わり者」とみられるだけで、教会全体の愛の課題にはなってきません。パウロが、テサロニケ教会のこのような生活をしている人たち、教会の使徒的伝承的な教えをもって、警告したのは、きょうだいたちへの愛の呼びかけなのです。
     当時のギリシア社会は、概して実際の「手で働く」ことに大きな価値を置いていなかったことを考慮すると、パウロのこの10節の意義は大きいですけれども、これは「余計な働きをしてだらしなく歩んでいる人々がいる」、そのようなテサロニケの社会に対する警告なのです。

     「落ち着いて働き、自分で得たパンを食べなさい」(12節)という言葉から、私たちは「自分のものではないパン」を食べる人々、あるいは社会的経済的な仕組みのことを考えるべきなのかもしれません。今日、この国においても、労働を搾取され、やる気を無くして、いくら働いても正当なパンを与えられない人々があり、一方では他者が得るべきパンまで不当に得ている人がいます。

     最後にパウロは自分の手紙であることを証明するために署名を加え、祝福の祈り、「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にありますように」を印、すべての人たちが疎外されたり、互い奪い合ったりしないで、主と共に平和に歩むことができるように祈っています。私たちもこのパウロの言葉に聞き、落ち着いて働き、パンを分かち合っていく生活をしていきたいと願います。お祈りをいたします。