澄んだ目で見続ける
2025年7月13日 イザヤ書49:14~21、マタイによる福音書16:19~24 関 伸子_牧師 マタイによる福音書第19節から21節を読むと、古代には財産がどのようなものであり、どのように保存されたかを忍ばせます。衣服にはシミがつき、穀物は腐り、地中に埋められた金銀は錆びたり盗難に遭うのです。そこで主イエスは地上に富を貯えることの虚しさを語って、「天に宝を積め」と語るのですけれども、実際に語られていることは、何を富とするかということが課題とされている[…続きを読む]
怒りをすてて
2025年7月6日 申命記26:1~11、マタイによる福音書5:21~26 関 伸子_牧師 マタイによる福音書が書かれた当時、マタイ教団は、明らかにユダヤ教のシナゴーグと対立していました。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5:17)という言葉は基本方針であり、この律法の先鋭化こそが、律法が本来求めているものです。 十戒の原文は単に「殺すな」とあるだけですが(出20:13、申命記5:[…続きを読む]
神は遠く離れていない
2025年6月22日 詩編25:1~11、使徒言行録17:22~34 関 伸子牧師 「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った」(22節)。パウロは異教文化の中心地で、インテリの代表者たちに正面から伝道をしたのです。「アテネの皆さん、あなたがたがあらゆる点で信仰のあつい方であることを、私は認めます」。「信仰のあつい方」、を口語訳は「宗教心に富んで」と訳しました。「信仰のあつい」は誤解を生むでしょう。ここでは一般的な宗教心のことです。「宗教的である」と[…続きを読む]
こころ開かれて
2025年6月1日 詩編93:1~5、ルカ24:44~49 関 伸子_牧師 先ほどお読みした、ルカによる福音書第24章44節以下で、その日一日の出来事の終わりである静かな夜更けに、主イエスが弟子たちにみ言葉を語り続けます。主が弟子たちに求めたこと、それは、これからなお、上から霊の力を授けられる、そのときまで、都に留まって、祈り、待ち続けなさいということでした。こうして新しい時代を迎えるための、しばらくの備えの時が始まるのです。 主は、ご自分の昇天を述べ[…続きを読む]
神を呼ぶ祈り
2025年5月25日 列王記上18:20~39、マタイによる福音書6:1~15 関 伸子_牧師 今日の聖書箇所を読む私たちには、私たちの行為が二種類に分けられることに気づかされます。偽善者のようにか、あるいは、主イエス・キリストを見つめて神に栄光を帰する行為か。「偽善者」は、マタイがこの語を用いる時には主としてファリサイ派、律法学者が頭にあります。ファリサイ派の人たちは、施しや祈りや断食などの善行をすることによって神に義と認められると考えていたので、それ[…続きを読む]