カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • ヤーウェの矢

    2018年6月10日
    詩編64:1~11、エフェソの信徒への手紙6:10~18
    濵崎 孝牧師

     詩編64編の信仰の詩人は、「毒を含む言葉」(4節)の矢に悩まされた人です。以前、ある会社の上司が部下から訴えられました。厳しいノルマを課し、言わば「毒を含む言葉を矢としてつがえ」、それを部下の自宅にまで電話で「射かけ」、過酷な仕打ちに及んだからです。詩人の敵は、「見抜かれることはない」(6節)と見くびっていたようですが、裁判所に訴えた現代人には録音の手段があり、彼はそれを証拠に非人間的仕打ちへの裁きを求めたのでした。私どもの時代にも、隣人に向かって矢を射かける人は少なからずいるのです。

     詩人は、毒を含む言葉の矢を射かけられた苦悩を――その死を予感させられる程の脅威を、裁判所ではなく主なる神さまに訴えました。彼は、「主を避けどころとし」、「主に従う人」(11節)だったからです。そして、彼はそうすることによって彼の生活を支える恵みを与えられたのでした。エフェソの信徒への手紙は、「信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです」(6章16節)と語っています。

     信仰の詩人は、「見抜かれることはない」と言って非道なことをする人々の愚かを想い起こすことが出来ました。なぜなら、主なる神ヤーウェはこの世界をお造りになり、深い関心を寄せているからです(ヤーウェは、主のお名前。創世記22章14節参照)。ことに、主に従う人への関心は格別で、信仰者を滅ぼそうとする「悪を行う者」(3節)の仕打ちを神さまは決して見過ごしません。「神は彼らに矢を射かけ/突然、彼らは討たれるでしょう。自分の舌がつまずきのもとになり/見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚めるでしょう。」(8~10節)――こうして、祈りの中でヤーウェの矢(主なる神の裁きの矢)を想い起こした詩人は、まだ苦悩のただ中にあっても、主に従う隣人と分かち合うことが出来るほどの平安を得たのでした。「主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い/心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。」(11節)。

     私どもはキリスト教会の者ですから、旧約聖書をキリストの光で読むことを忘れてはなりません。私どもは、詩編64編から福音的な語りかけを聴きたいのです。

     詩人は、「神は彼ら(無垢な人へ悪を謀る者)に矢を射かけ」(8節)と言っていましたが、ヤーウェの矢はそういう人々に向かって放たれるだけでしょうか……。私どもは同じ旧約聖書の中で、ヤーウェの信仰者ヨブ兄の叫びを読んでいるのです。「わたしの苦悩を秤にかけ/わたしを滅ぼそうとするものを / すべて天秤に載せるなら/今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。/わたしは言葉を失うほどだ。/全能者の矢に射抜かれ/わたしの霊はその毒を吸う。/神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた。」(ヨブ記6章2~3節)――私どもは、こういう深刻な叫びを人間は抱えて来たということを想起しながら詩編64編を読むのです。そして、ヤーウェの毒矢に射抜かれたと思うほかはなかったヨブが、やがて、「全能者の矢に射抜かれ、わたしの霊はその(毒ではなく)慈愛を吸」ったという幸いに気づいたことをも想い起こしつつ、「神は彼らに矢を射かけ」という詩句を受けとめるのです。

     詩編の信仰者は、「毒を含む言葉を矢としてつがえ」た人々の悪事を神さまに訴えました。それは、大切なことでしたが、私どもは告発するだけの人間ではいけないのです。私どもは、主なる神さまが慈愛に満ちた言葉を矢としてつがえ、この世界へ放ったという福音を聴かされて来た者なのです。主なる神さまは、全人類の罪を贖うため、御子イエスさまという愛の矢を放ち、その十字架と復活の愛で私どもの魂を射抜き、私どもが罪に死んで、永遠の生命に生きるようにしてくださったのです。10節に見出された、「御業に目覚める」という言葉は、そういう深い事柄を言い表すものとして語られるなら、真に御心に適うのです。毒を含む言葉を矢としてつがえる人は、ヤーウェの矢に討たれる……。しかし、ヤーウェの矢に討たれた人を見て「侮る」のは、キリスト者には相応しくありません。なぜなら、主ヤーウェは、罪深い人を救う矢を射たということを新約聖書は語りかけているからです。

     さて、愛の言葉であるキリスト・イエスさまがヤーウェの矢だったとすれば、キリスト教会の私どももヤーウェの矢のように用いられるのではないでしょうか。詩編64編1節の表題には、「ダビデの詩」とありましたね。ダビデは、彼の生涯の宝になったであろう「ヨナタンの矢」の想い出を持った人でした(サムエル記上20章参照)。ヨナタンは、ダビデを殺そうとしたサウル王の息子でしたが、ダビデを愛し、深い友情を育んだ人です。そして、理不尽な父親と親友との間で苦悩した人でした。彼はダビデをかばい、父サウル王から殺されそうにもなったのです。けれどもヨナタンは、主ヤーウェの信仰者でした。その信仰に背を押されるようにして、ダビデを助けました。彼は、「ダビデ、早く逃げろ」という合図の矢を放ったのでした。あのヨナタンの矢は美しい友情の矢、人間の命が賭けられた愛の矢でした。主ヤーウェのお支えがあれば、的外れな人間も信実な愛の矢を射ることが出来るのです。サムエル記下22章の「ダビデの歌」には、「(主なる神はわたしの)腕に……弓を引く力を帯びさせてくださる」とあります。主ヤーウェは、私どもにも愛の弓を引く力をお与えくださるのです。

     キリストという矢を射かけ、私どもが十字架と復活のご慈愛を吸うようにされた主なる神さまは、私どもにも愛の弓を引く力を帯びさせてくださいます。私どもを愛の矢にもしてくださいます。また、信実な矢を射る人との出会いも祝福してくださるのです。「神は彼らに矢を射かけ」……どうぞその「矢」からキリストのご慈愛を想い起し、私どもをヤーウェの矢としてくださる神さまの憐れみに信頼していきましょう。