カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 逆風で悩む中に

    2018年7月8日
    マタイ14:22-33
    国立のぞみ教会 唐澤 健太 牧師

     イエス様に強いられて向こう岸に向かった弟子たちの舟はガリラヤ湖で逆風にさらされ、波に悩まされていました。弟子たちは以前にも同じように湖で嵐に遭遇したことがありました(マタイ8:23以下)。その時はイエス様が一緒に舟に乗っておられました。主が「風と湖とをお叱り」になって嵐を静めました。しかし、今回は主イエスは弟子たちと一緒に舟には乗っていません(23節)。山の登って祈っておられるイエス様と逆風の中で悩んでいる弟子たちの間には「何スタディオン」(1スタディオンは185m)の距離があり、荒れた湖があったのです。弟子たちは嵐そのものの恐れも当然あったと思いますが、それに加えて「主の不在」が弟子たちの悩みをより深くしていたかもしれません。

     しかし、福音書が告げることは、逆風の中で波に翻弄され、苦しみ悩む弟子たちところに、荒れた湖の上を歩いてイエス様が近づいて来て下さったということです(25節)。水の上を歩く姿は、ただの奇跡行為者として描かれているのではありません。旧約聖書には次のような言葉を見出すことができます。「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない」(詩編77:20)。「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」(ヨブ9:8)。水の上、しかも、荒れ狂う高波を踏みつけるようにして歩く姿は、神の顕現を現しているのです。

     弟子のだれが、主イエスが湖の上を歩いて来られることを考えたでしょう。「幽霊だ」と叫んだのは、誰一人として、主イエスが助けに来てくれるとは考えてもいなかったということです。しかし、主は、私たちが想像もすることのできない「道」を通ってでも悩み苦しむ者のところに来てくださる方なのです。弟子たちが翻弄されている逆風も、波もイエスという方が弟子たちのところへ行くのに何の妨げにもならないのです!

     逆風の中で悩む弟子たちの姿は、教会が、キリストの弟子たちが経験し続けることです。逆風の中で悩んだことのない者は一人もいないでしょう。人生の逆風をだれもが経験します。自分の経験や力がまったく及ばない苦難があります。しかし、その私たちに主は近づき、すぐに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言葉をかけてくださったのです。

     「わたしだ」という言葉は神様がご自身を表す時に使う特別な言葉です。これは「わたしがいる」とも訳せる言葉です。「わたしがあなたがたと共にいる」(インマヌエル)ということです。恐れる弟子たちに、主は「わたしがいる」と言葉をかけてくださるのです。

     私たちはイエス様をこの目に見ることはできません。しかし、イエス様は御言葉として私たちに出会ってくださるお方です。それが嵐の中で荒波に苦しむ弟子たちが経験したことであり、私たちが経験し続けることです。私たちは逆風を経験することなく、悩みなく生きることができたらと願います。しかし、それは残念ながらかなわない願いです。信仰を持てば、私たちの人生から、逆風や悩みがなくなるということはありません。逆風の中で、自分の経験や自分の力が及ばない出来事に繰り返し直面させられます。人生を無風で過ごすことなど決してありません。クリスチャンとなって、なんの嵐もなくここまで生きてきましたって言う人はいるでしょうか? 少なくてもわたしはそのような人に出会ったことはありません。むしろ不思議なことに、私たちは嵐を経験する中でも、「大丈夫だ」という主の語りかけを聞いた証を耳にするのです。

     少し前になりますが、わたしは牧師として立っていくことがとても不安になったことがありました。日曜日に講壇に立つのが怖く、説教することから逃げ出したくなるような思いになってしました。牧師としての召しについて恐れ、迷う時でした。

     日曜日の朝、重たい気持ちのまま目が覚め、「聖書愛読こよみ」に従ってその日に与えられた御言葉を読みました。Ⅰテモテ4:6-16がその日の御言葉として与えられていました。そこには、「わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言よって与えられたものです。これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません」とありました。わたしは、この御言葉を読んだ時、畏れを覚えました。主はすべてを知ってくださっている。そういう気持ちでいっぱいになり、聖書を読んで久しぶりにその朝、涙を流しました。そして、気持ちを整えて説教の準備を終え、日曜日の朝食を家族でする時に、「日々の聖句」(ローズンゲン)からその日に与えられた御言葉を読みました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)。わたしの召命の御言葉そのものだったのです。嵐の中で、「わたしだ」という主の臨在を教えられた主の日の朝でした。この生ける主の御言葉との出会いを経験する中で、私たちは嵐の中であっても、新しい地平を生き始めることができるのです。

     マタイ福音書はそのことをペトロの行動で示しているように思います。まっすぐに主に言葉に信頼して、高波の上を歩くペトロ。しかし、「強い風に気がついて怖くなり」沈んでしまうペトロ。このペトロの姿は、私たちの姿そのものに思えます。

     信頼と疑いの両面を持つのが、私たちの信仰です。私たちの信仰は疑いを持つものです。「信仰の薄い者」です。しかし、その私たちの手をすぐに捕らえてくださる方がおられる。これこそ救いです。救いは、私たちが主を捕まえることではなく、主が私たちを捕らえてくださることです。私たちは、力尽きて、手を離してしまう時があるでしょう。しかし、主の御手は私たちを捕らえてくださるのです。それが救いです。それがインマヌエルです。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」(Ⅱテモテ2:13)。わたしたちは常に誠実ではあれない。疑い、まよい。沈んでしまう。しかし、その私たちたちを、手を伸ばして捕まえてくださる。そのキリストの救いの常に変わらないのです。このキリストの真実にかけていく、信頼して委ねていく。それが信仰なのです。私たちは嵐のない人生を過ごすのではなく、嵐の中にあっても、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という声を聞きながら生きることができるのです。