カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • ドンド・クライ

    列王記上17:23~28、ルカによる福音書7:11~17
    国立のぞみ教会 唐澤 健太牧師

     「もう泣くなくともよい」(13節)。イエス様は一人息子を失ったやめもに向かって言われた。英語の聖書では“Don’t cry”「泣くな」である。「泣き続けるな」というのが原語のニュアンスのようだ。誰が一人息子の死を経験している母親に「泣くな」と言えるだろうか。
     先日、のぞみ教会では8歳の少年の葬儀を執り行った。その子のことも、母親のことも知っていた。棺に抱きつき、我が子にすがりつき、涙を流す母親と父親、葬儀には380人もの人が参列し、多くの人の涙をみた。その場で、“Don’t Cry!”「泣くな!」とは私には言えないし、その言葉はおそろしい暴言のようにさえ思える。

     死別の悲しみにある人にとって重要なのは悲しみを悲しみ尽くす「グリーフワーク」だと言われる。牧会カウンセリングの学びなどでも必ず言われることだ。「泣きたいだけ泣いてよい」。それが死別の悲しみの中にある人に向かって私たちの言い得る数少ない言葉だ。
     それに対して、主イエスの言われた「泣くな」という言葉。これは、衝撃的な、非常識な言葉だ。この後、亡くなった若者が起き上がるという出来事があるが、それよりも先ず主イエスが母親にかけられた言葉に驚く。

     ここで一つ注目すべきは、著者のルカは13節だけイエス様のことを「主」と記していることだ。教会においてイエス様を「主」とするのは、復活後のことだ。復活のイエスが「主」である。つまり、このナインのやもめの物語を通してルカが私たちに伝えるのは、ここで母親に語りかけているのは、地上を生きたイエスの歩みであるのと同時に、十字架と復活の主に他ならないとうことだ。私たちの口からは、好きなだけ泣いていい。そう言いながら寄り添うことしかできない。しかし、主は、死別の悲しみを、しかも、その死別でももっとも深い、子どもとの死別を経験している母親にむかって「もう泣かなくてもよい」、わたしが来たのだからと告げられたのだ。わたしは死に打ち勝ったのだから! 死に打ち勝ち、死を滅ぼし、すべてを空しくする墓を新しい命の始まりの場所と変えられた主が「もう泣かなくともよい」と語りかけておられるのだ。これは、主にしか言えない言葉なのだ。

     主は、一人息子を失った悲しみに打ちひしがれる母親を「見て」、「憐れに思い」、「近づいて」、「触れられる」。この動きは、ルカでは特に重要な動き(動詞)である。10章にある「よきサマリア人のたとえ」、15章にある「放蕩息子のたとえがあるが、よきサマリア人は、道端で追いはぎに襲われた人を見る、そして憐れに思い、近づき、懐抱する。放蕩息子のたとえでも、放蕩の限りを尽くしてぼろぼろになった息子を父親は見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻する。見て、憐れに思い、近づき、触れる。これはルカに記される神様の動き方なのだ。

     痛み、悲しむ者をご覧になる神は、じっとしていられない。自らの腸に痛みを覚えつつ行動されるのだ。じっとしていられないのが聖書の神様だ。「おろおろする神こそ愛の神だ。愛の神は落ち着かない。落ち着いていられない」(小山晃佑)。痛み叫ぶイスラエルの民をすく出すために降って行かれた神は、「その民を心にかけてくださる」神なのだ。

     主イエスを通して、明らかにされる神の憐れみ、神の愛は、無条件に、すべてを失って涙するやもめに与えられているということだ。このナインのやもめは、涙し、打ち震える中にある者の代表である。「もう泣かなくてもよい」と言われたその言葉は、それを必要としている、今泣いているすべての人に、無償で与えられている神の宣言である。「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」(6:21)。教会は、多くの涙が流れる時代にあってなお、「もう泣かなくともよい」と言われる主がおられることを証するのだ。

     教会を長年支えてくださったKさんが天に召された。昨日その葬りの打ち合わせの場で、この箇所を一緒に読んだ。しばらく前にのぞみ教会でもこの箇所から共に御言葉を味わっていたからだ。「もう泣かなくてもよい」。私には言えないが、主の言葉としてその場にいた者たちで共に聞いた。深い悲しみがある。実際に涙を流しながらの打ち合わせでもあった。しかし、その傍らに、死に打ち勝たれた主がおられ、「もう泣かなくてもよい」との御声を聞くことができる。この主の言葉はこれは決して暴言などではなく、主イエスが十字架の死をもって、その痛み、苦しみを通されて、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのです」という叫びを通された方が、いまも生きているお方として、私たちに語りかけて下さる慈しみ深い、めぐみの言葉である。

     主イエスのゆえに教会は死と生の断絶を越えて生きる。私たちが礼拝で与る聖餐は天の御民と地にあるものが一つとなって行うものだ。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14:9)。主は、死んだ人にも主なのです! 死んだら主との関係が終わるのではない。死んでもなお、主は主なのだ。十字架と復活の主は、わたしたちが死んでもなお主であり続けてくださる。そのためにキリストは、死に、そして生きられた。

     復活の主イエスは、涙をするマグダラのマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言葉をかけられた。Don’t Cry! これは、初代の教会の宣教の言葉としてとっても大事な、重要な言葉だったのだと思う。なぜなら涙がいっぱいあったから。あってはらない死の悲しみが多くあった。なんて言葉をかけていいのかわからない人の痛み、悲しみがあふれていた。しかし、教会は主の言葉を語り続けた。“Don’t cry”涙を流す私たちであるが、なお主の御声を今日、慰めとして励ましとして聞くことができる。死に打ち勝たれた主がおられるのだから。