カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

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  • 共に生きる喜び

    2019年10月20日
    カンバーランド長老キリスト教会 東小金井教会
    臼井 正人 長老
      旧約聖書 詩編 34編12節~23節(864頁)
      新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章9節~21節(292頁)

     今朝はアジア教職者修養会で香港へ行かれている関伸子牧師に代わり、説教をすることになりました。このように皆さんに向かって説教をすることになるなど、全くの想定外でして、祈祷会での奨励でも四苦八苦する私に務まるのだろうか、とは思いつつ、これも神さまから与えられた試練ととらえ、この場に立っています。

     早いもので2019年ももう4分の3以上を経過し、残るところ後2か月強です。400m一周のトラックを1年とするともう第4コーナーを回りあとはゴールに向かってスパートするのみ。クリスマスに向かって突き進む時期になっています。

     今年の教会標語は「思いをひとつにする」で、聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒の手紙12章15節)ですね。正面左手の、桑原道子姉が作ってくださった素敵なバナーに書かれています。今年最初の主日礼拝で、関牧師が「思いをひとつにする」という説教題で、私たちの目指す信仰生活についてお話されました。この聖書箇所は「キリスト教的生活の規範」と小見出しがついています。人間にとって、喜ぶ人とともに喜び、悲しむ人とともに悲しむことぐらい難しいことはない。まず、「互いに思いを一つにする」、ひとつのことをお互いに考える、イエス・キリストにおける一致を勧められています。そして、キリスト者である私たちに「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)と勧めています。神さまを信頼し、お委ねし、思い煩うことなく、敵を愛し、その愛によって、悪に勝つ。私たち一人ひとりの心の中に、そしてこの交わりの中に、神の愛の怒りと赦しのしるしである十字架が立っていると信じ、告白したい、と今年の私たちの目標を示されました。

     この「思いをひとつにする」ということと、「すべての人と平和に暮らす」ということに焦点をあて、少し今年の私たち、東小金井教会の歩みを振り返りながら、話をさせていただきます。

     先ほどお読みした新約聖書、ローマ信徒への手紙12章9節からには、「キリスト教的生活の規範」と小見出しがついています。ここは、新しい聖書協会共同訳では「キリスト者の生活指針」と小見出しの訳が変更されていて、こちらの方がわかりやすいと思います。この12章を最初から読むと、「礼拝を大切にしなさい」、人は与えられた恵によって、それぞれに異なった賜物を持っている、ということが書かれています。そして9節以下はイエス・キリストの十字架と復活によって示された神の愛の実践、キリスト者の信仰生活における具体的な指示が記されています。具体的な生活指針がいくつも書かれていますが、日常生活の中で他の人と「平和に生活する」こと。イエス・キリストがすべての人のために命を捨てられたことに象徴される「仕える」姿勢にならい、「キリストによる世界の平和の実現」を目指すことが求められています。愛をベースに尊敬を持って互いに相手を優れものと思うことは、神によって与えられた共同体を尊重することでもあろうと思います。

     私たちの生活のなかで本当に喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことは難しいことです。悲しんでいる人、苦しんでいる人に対し、どう言葉をかけたらよいのか。本当に迷ってしまいます。ペテロの手紙一5章7節に「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださる」とあります。そのことを信じ、祈ることしかできないのが現実ではないでしょうか。今年のKC-NETの一致祈祷会で、田村啓牧師(日本アライアンス教団東京キリスト教会)が祈りには5つある、①賛美、②感謝、③懺悔、④執り成し、そして⑤願い。主イエス・キリストが「鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」という前に、信仰が無くならないようにとペトロのために神に執り成しの祈りをなされたという記事がルカによる福音書(22章32節)にあります。私たちの教会でも、皆で執り成しの祈りを捧げお互いに支えあっています。しかし、喜ぶ人と共に喜ぶことはもっと難しい場合があります。なかなか利己心や執着心から自由になれずに、手放しで他人の幸福を喜べない自分がいます。しかし、これはキリスト者としてどうなのか。「他人と比べる」ことが一因なのだと思うのです。決して現状に自己満足してはならないとは思いながら、必要なことはすべて神さまが与えて下さっているのだ、ということを受け入れていない不信仰がそうさせていると悔い改めることの繰り返しです。

     今朝は、旧約聖書の詩編34編をお読みしました。この34編はヘブライ語がわかる方には、とても美しい詩的表現が用いられているそうです。そして、チャールズ・スポルジョン牧師は、前半(1から11節)を「賛美歌」、後半(11節から23節)を「説教」と呼んだそうです。後半は神を主とした生活において必要な知恵のことと信仰の対象が書かれているからです。一つの詩に礼拝の全部が含まれていることになります。この中に「悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。」という一節があります。聖書協会共同訳では「悪から離れ、善を行え。平和を求め、これを追え」(15節)です。この詩編のポイントを絞れば「主を畏れて、悪を語らず、平和を追い求めよ」と歌われていえます。暴力(戦争や紛争)によって平和を導くことはできず、互いに理解するためには悪を避け、真摯に対話をすることが大切です。そして、キリスト者としては、何よりも「主を畏れる」ことを前提とすることが大切だというのです。

     この夏のことですが、小手鞠るいさんの『ある晴れた夏の日』という小説を読みました。この本では、広島と長崎に投下された原爆を巡り十代の米国人8人(日本生まれ米国育ちの日系人=主人公のメイ、アイルランド系、アフリカ系、ユダヤ系、中国系など、そのルーツは様々な子たち)が肯定派と否定派に分かれて4回にわたりディベートをすることが描かれています。命題は原爆の是非ですが、それぞれのおかれた立場から、真珠湾攻撃、日中戦争、ナチズム、戦時中の日本人強制収容やドイツ戦線への参加、アメリカマイノリティなどにも議論が及んでいきます。「真珠湾を忘れるな」「人種差別の意識がさせた」など、激しい応酬を重ねます。しかし、回を重ねるうち、参加者全員が戦争の愚や敵を愛する人間の崇高さに目覚めて行きます。ある生徒は、「憎しみと怨恨のチェーンと暴力の連鎖を断ち切るためには、互いに相手を赦すしかない。相手を赦し、愛さなければならない」、「われわれの共通の敵、すなわち無知や憎悪や偏見と闘わなければならないのだ。憎しみという敵はわれわれの外ではなくて、内側にいるのだ」という、イスラエル軍の攻撃で家族を殺されたパレスチナの医師のことばに、胸を揺さぶられたことを述べます。そして、「平和を創造する一個人でありたい」と決意表明するに至るのです。この小説の中で、広島の原爆死没者の慰霊碑に刻まれた<安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから>の英訳をめぐり、という訳を披露し、日本人自身がみずからの罪を懺悔し、原爆投下を受けても当然だった、原爆投下は正しかったと思っている、という主張がありました。それに対し主人公メイの母親、日本人で翻訳家、が誤訳であることを娘に教えます。日本語には主語が書かれていませんが、英訳としてWE JAPANESEという主語を入れるのは誤りである。これは「わたしたち人類は、もう二度と同じあやまちを犯してはいけない」とこの慰霊碑は語っているのだ、というのです。このことを、メイはディベートの中で語ります。また、世界平和を創造するためには、一人ひとりが自分の手で、自分自身の内面に、確固たる平和を築くことから始めなくてはならない。戦争は人だけではなく、ありとあらゆるものを破壊するものであり、勝ち負けはなく、どちらも負けです。という主張そした生徒もいました。大きな社会活動も先ずは、一人の志から出発しています。「平和を創造する一個人」となることから踏み出すことを決意した主人公メイが描かれています。

     ティーンエージャー向けの本ですが、大人が読んでもとてもすがすがしい気分になります。しかし、現実世界を見ると何と不寛容で相手を許すどころか、まるで反対の事柄が多いことでしょうか。この本は根深い対立でも、誠意を尽くして議論をすれば、一致点に辿りつくことができるという希望を与えてくれます。

     アメリカでは、原爆投下の正当性を主張する意見がまだマジョリティなのでしょう。しかし、この本に記されたような考えを持つ人がマイノリティであってもいるでしょうし、そのことを実際に訴え続けている人たちもいるというニュース番組を見たこともあります。今年もこんなニュースがありました。長崎に投下された原爆の原料であるプルトニウムを生産した、ワシントン州リッチランド(原子力のまち)に留学した日本の女子高生が、受け入れ先の高校のロゴマークに使われていた原爆でできたきのこ雲に疑問を持ち、高校の動画で自分の考えを訴えたものがネットで拡散し、話題になりました。ネット社会になり、様々なコトが瞬く間に世界中に拡散し、議論がされる世の中です。彼女は「雲の下にいたのは兵士ではなく市民でした。罪のない人たちを殺すことに誇りを持っていいのですか」と投げかけた。一人の高校生が声を上げたことにより、多くの人が反応しました。もちろん、それでも原爆投下は正当だったと主張する人はいます。声を上げなければ、事実を知らなかった人も多かったと思います。

     この本を読むのと前後し、私事ですが、会社で広島出張の機会を得、9月の上旬に生まれて初めて広島平和記念資料館を訪問することができました。今年4月にリニューアルされ、吉永小百合さんの朗読も含まれる音声ガイド(有料でしたが)の貸し出しもあり、目の悪い私でもしっかりと見学することができました。本当に多くの外国人が訪問されており、「過ちは繰り返しませぬから」という言葉を「人類の犯した過ち」であると、一人でも多くの方が心に刻み、平和を創造する一人となられることを祈らずにはいられません。

     東小金井教会では今年、平和を考える会で東京大空襲資・戦災料センターへ訪問する企画がされ、10名の兄弟姉妹が参加されました。このように「平和」という一つのことについても、共に考える仲間がこの与えられていること、神さまからの恵みに感謝したいです。日本中会でも11月に平和スタディツアーとして同じ場所を訪問するそうです。4月には同じく日本中会 神学・社会委員会主催の平和後援会が国立のぞみ教会で行われました。「檻の中のライオン」の作者である楾(はんどう)大樹(たいき)弁護士を迎え、憲法とは何か、平和憲法の大切さを共に学び、考える機会も与えられました。また、11月には「平和チャリティコンサート in 多摩」があり、関牧師が司会をされます。今年は、例年より「平和」について考えることが増えているような気がします。政府の不穏な動きに対し、このままではならないという思いが多くの人を動かし始めている。特に私たちキリスト者は「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という教えを、「思いをひとつにして」実践することが求められているのではないでしょうか。

     今、日本では4年に一度(日本開催は一生に一度とも言われる)ラグビーワールドカップが行われています。9月20日の開幕戦から11月2日の決勝戦迄という長い期間に、世界20の国・地域のチームが48試合を行います。日本ではあまりポピュラーなスポーツではありませんが、世界的にはオリンピック、サッカーのワールドカップと並ぶ三大イベントの一つに数えられ、多くのラグビーファンが世界中から日本に集まってきています。何が面白いのでしょうか。楕円形をしたボールは、丸いボールと異なり、どこに転がるのか予測が困難です。そのボールをゴール目指して15人の選手が追いかけます。ボールは自分より前に投げるのは反則です。15人の選手にそれぞれ役割があります。よく選手を見ると、体を鍛え上げているのですが、何とその身長・体重は様々です。それぞれの与えられた体格(賜物)に応じ、役割分担をしています。そして、各チームの多様性にも特長があります。例えば、日本代表選手ですが、31人の代表のうちの15人が日本以外の出身の選手で、日本国籍を取得した選手やそうでない選手も、要件を満たして日本代表として戦うのです。「ONE TEAM」というのを合言葉に、激しい試合をし、終了すれば「NO SIDE」。敵も味方関係なく互いの健闘を称えあう。ビールの消費量が増え、試合会場の近くの飲食店は普段の7倍も仕入れるとの話もあります。あるラグビーの選手が「生活で大切なことは、すべてラグビーが教えてくれた」というほどです。日本代表の活躍により、にわかファンが急増しているようです。

     世界的な指揮者、小澤征爾さんは中学時代にラグビーに興じ指を骨折し、ピアニストになる夢を諦めて指揮者の道へ転向したそうです。小澤征爾さんがラグビーと出会っていなかったら、「世界の小澤」は誕生していなかったでしょう。指揮者とし、様々な国の人と一つの音楽を作り上げるのですが、一人ひとり個性があり、考え方も異なるのでまとめるのは本当に大変だそうです。それでも、その小澤さんが最近のNHKのインタビューで、違う個性が一緒にやるのが面白い、10人いたらみんな違う、そのうち8割も一致したら万々歳。ちょっと違うのがいて、合わせたり、聞いたり、受け入れたり、押したりするのがおもしろい。仮に全員が一致したら、その音楽は逆に気持ち悪いものになってしまいます、違う人がいるからいいのだ、というようなお話をされました。プロの音楽家とは比較にはなりませんが、私たちの聖歌隊やリコーダーの合奏も、「思いを一つに」して神さまに向けて捧げることができれば、たとえ調子が少々ずれようが、それでもよいのではと思いました。

     私たちは、キリスト者として、この場所に神さまから招かれて集っています。同じ日本人であっても、それぞれ異なったバックグランドを持った人がいます。自ずと考え方も異なりますし、個性があります。各自が互いに部分として、キリストに結ばれ一つの体を形づくっています。それぞれ異なった賜物を神さまに与えられています。今年の歩みを振り返ってみても、教会の様々な行事、必要なモノが、それぞれの賜物を捧げることによって成り立ってきています。ひとつひとつのコトをイエス・キリストを土台に考え、必要があれば議論し、相手のことばを聞く。そして、思いを一つにして祈り求め、取り組むと、そこに必ず神さまからの恵みが働いて、本当に必要なモノは整えて下さるのだということを経験しています。東京三教会合同礼拝で、石塚惠司牧師からめぐみ教会での出来事をお聞きしました。教会という場所は、この世にありながら、この世の他の組織とは異なります。主にあって生きることによる様々な恵みを経験させてくれます。

     今朝は、「共に生きる喜び」と題をつけながら、とりとめのない話をしてしまいましたが、本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙12章9節から21節のキリスト者の生活指針は、難しく考えると難しいのですが、こんな私でさえも神さまが捕らえ、このように生かして下さっています。共に生きている喜びを実感できるような、教会生活を営んで行きたいと思います。すべては神さまからの恵み。生きるのも、死ぬことも。神さまのご計画は計り知れません。悲しい時には共に悲しみ、嬉しい時に共に喜んでくれる神の家族がいること。その真ん中に、神さまが共にいて下さることを信じ生きて行ける。キリスト者は何と幸いでしょう。共に十字架を見上げ、神さまに喜ばれること、神さまの栄光が現わされることを求め、従ってゆく信仰の友と共に生きる喜びを、大切にして行きたいと願います。そこには、詩編の詩人が歌った「悪から離れ、善を行え。平和を求め、これを追え」という姿勢が通じるのでは、と思います。

     お祈りします。神さま、私たちがあなたを畏れ、平和を求め、これを追い求めるものとさせてください。悪に負けることなく、善をもって悪に勝てますように。思いをひとつにし、福音を証するものとし、これから始まる1週間、それぞれ与えられた持ち場で雄々しく歩むことができますよう、お導き下さい。感謝し、お委ねし、主イエス・キリストのお名前を通してお祈りします。 アーメン。