カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真理はあなたたちを自由にする

    2020年9月13日
    エレミヤ書28:1~17、ヨハネ8:31~38
    関 伸子牧師

     先ほどヨハネ福音書第8章31節から38節の朗読をお聴きになって、みなさんは、「真理はあなたたちを自由にする」という御言葉を中心にこの箇所が展開されていることにお気づきになったと思います。

     仮庵祭において語られた主イエスの御言葉を聴いて、イエスを信じた多くの人の中には、ユダヤ人、即ち民の指導者である祭司、ファリサイ派の人々もいました。「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と書き出します。表面的にではありますがイエスに従おう、あるいはイエスを信じたということを前提に、イエスがひとつの挑戦をします。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。「本当に」ということの裏側には偽りの弟子がいると予測しておられるのです。

     「真理はあなたたちを自由にする」(32節)。この言葉にユダヤ人たちはつまずくのです。彼らはバビロン捕囚以来、国を失い、外国の支配下にあったからです。しかし彼らは宗教的に神の選民であり、天地を創り、すべての人と歴史を支配する唯一の神を知り、その御心である律法を与えられているという自負を持っていたからです。この律法を守ることによって自分たちは自由である、誰からも指を指されることはないと考えていたのです。

     「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(32節)。真理とは、神であるイエスのことである。真理を知ることは神を知り、イエスを知ることに他ならない。そしてこの真理を知るということは知的に、理知的に知るということではなく、神との関係を修復させること、神との人格的関係を切り結ぶことを意味しているのである。

     するとユダヤ人はこう言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」(33節)。ユダヤ人は当然のことながら「自由」という言葉を奴隷からの自由と理解していました。ユダヤ人たちはイエスの言葉が意味するところを聞くよりは、自分たちの出自を持ち出して自己防衛します。

     イエスは「はっきり言っておく」と、重要な宣言をなさる時によく使われる言葉をもってお答えになられた。イエスはユダヤ人のプライドを理解しながらも自由ということが罪からの解放を意味することを指摘する。イエスはユダヤ人が血筋や出自からすればアブラハムの子孫であることを承認する。しかし、実際にはイエスの言葉を受け入れず、イエスの言葉にとどまらず(31節)、最終的にはイエスを殺そうとしていることを指摘する。そしてその理由として、イエスの父は神であるがユダヤ人たちの父はアブラハムであることの違いを、皮肉を込めて展開する。この章の後半にアブラハムとイエスの関係を解明する言葉が記されている。ユダヤ人が信仰の父と仰ぐアブラハムは、イエスの来臨と彼の宣教の日を見て喜んだ(8:56)。それは、彼らはイエスに対してとっている態度とは正反対のものである。さらにイエスは言われた。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」(8:58)。アブラハムは「生まれる」ということばで示されるように歴史上の一点に存在した人物であるが、イエスは「いる」、即ち永遠に変わらぬ存在である。イエスはこのような言葉によって御自分の神性とご自分が永遠に存在する方であることを主張されたのである。

     「すべての人が自由になるまで、私は自由でない」と言ったのはアメリカの黒人指導者マルチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師である。他者との関係における自由の本質をよく示した言葉だと思う。イエスの真理にとどまることにより、私たちは神との関係性において自由にされる。キング牧師は、ある演説で力強くこう語った。「道徳的宇宙の弧はどんなに長くても、正義の方向に曲がっていることを理解しよう。どうかウィリアム・カレン・ブライアントが言った、『真理はたとえ踏みにじられようとも必ず再び立ち上がる』という言葉が正しいことを理解しよう。これがわれらの未来の希望なのだ。そしてこの信仰をもってすれば、われわれはいつかそう遠くない明日に、宇宙大の過去形で歌うことができるであろう」。キング牧師は39歳で殺されてしまったが、彼の夢により、真理と愛の力と聖霊の導きにより、すべての人の諸問題を解決する力が与えられるのである。

     主イエスが言われた自由は、罪から解放されるという賜物としての自由であった。また、神のみこころを知り、それを実践することのできる自由でもあった。つまり、神のことばを信じて神と共に歩む自由のことである。それはまた、人を赦し、赦され、愛し、愛されている自由でもある。これは主イエスから与えられる賜物としての自由なので、私たち自身はもともと持ち合わせていないものである。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と主イエスが言われたことをわが身に受け、愛と自由のなかを歩みたいと心より願います。お祈りをいたします。