カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • ヨナのしるし

    2021年4月18日
    詩編116:1~14、マタイ12:38~42
    関 伸子牧師

     今日のマタイ福音書第12章38節は「しるし」を求める律法学者やファリサイ派の人々の登場をもって始まります。「その時)」と話を始めることによって、前段に引き続き律法学者の態度を問題視していることがわかります。

     「先生、しるしを見せてください」と律法学者とファリサイ派の人々の何人かがイエスに言います。ファリサイ派の人々は「しるし」と言うにふさわしい「しるし」(単数形)を求める。イエスが神の子であることのすばらしい出来事、目を見張るような神の子としての証拠を求めている。そのように問う人々は律法学者やファリサイ派の人々の中でもイエス・キリストを理解しようとしていた人々のように思える。彼らにも彼らなりの人生があっただろう。イエス・キリストを信じて歩み出すということは、それらを全部捨てることですからそう簡単にはできない。

     主イエスはこれに応えて、「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられない」と答える。旧約聖書は、イスラエルの不信仰による背信を、神に対する裏切りであり、姦淫であると述べている。したがって、イエスがここで「不義の時代」と言っているのは、イエスの時代の人々が不信仰であり、神に背いていることを示しているのである。

     主イエスは唯一のしるしは預言者ヨナであると言う。ヨナは、宣教のために神からアッシリアの都市ニネベに遣わされた預言者ですけれども、それに従おうとしなかったので、海上で嵐に遭い、大魚に飲み込まれ、その腹の中で三日三晩を過ごした。ヨナが大魚の腹から出てニネベに行き、人々に神のことばを伝えた時、人々は悔い改めたとヨナ書第3章に記されています。主イエスはこの出来事を踏まえて、ご自分が十字架にけられて殺され、墓の中に入れられ、三日目に復活することを暗示していたのである(40節)。

     この「しるし」は逆説的です。イエス・キリストが十字架にかけられた時、人々はからかい半分に「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)と「しるし」を求めたが、イエス・キリストは、十字架から降りてみせることによってではなく、逆に、十字架から降りず、そのまま陰府にまでくだることによって、神の子であることを示された。つまり、イエスがメシアであることは十字架と復活という出来事によって明らかにされると言ったのである。そして、この復活の出来事は、イエス御自身が自分の実際の復活が起こる前からご自分が命であり、復活であることを説いているように(ヨハネ11:25)、単に将来の出来事ではなく、主イエスを信じる時から実現される出来事である。

     律法学者やファリサイ派の人々はヨナの説教にまさるイエスの説教を聴いても少しも信じようとしなかった。また、ソロモンの時代に、南の女王はソロモンの教えを聞くために、わざわざ「地の果てから」、はるばるやって来た(列王一10:1~10)。ところが、ソロモンよりもはるかにまさるイエスが、神のことばを語り、メシアとして奇跡を行っているのに、律法学者やファリサイ派の人々は心をかたくなにして、信じようとしないのである。

     この世界のどこを探しても、最後まで存続する完全な保証などは与えられない。この地上では、すべてのものに終わりがあり、すべては死にのみこまれてしまうからである。しかし、だからこそ、「キリストが死んで、復活した」、まさにそのことが、私たちにとっての永遠の保証となる。私たちは、それぞれの人生の中で多くの愛する人々の生涯の終わりに立ち会い、私たち自身も死と向き合いながら生きる。その人生において、キリストの死と復活という保証が与えられていることは極めて大きな意味をもつ。ここにこそ、私たちは、私たちの最終的な確かさを置くべきなのである。

     詩編116編は祈りを聞き届けてくれた神ヤハウェへの信頼と感謝の表明をもってはじまる。続いて「死の綱」に絡まれ「陰府の脅威」に襲われるなかで、神に救いを嘆願した「私」の体験が述べられる。憐れみ深い神は嘆願の声を聞き届けてくれる神(1節)として、弱り果てた「私」を見守り、「私の魂を死から」救い出してくれた。救いの神は「とても苦しい」とあえぐ時も一緒に歩いてくださる。詠い手は感謝をもってそのことを告白し、神の前に歩むことを誓う。前半部最後10~11節では、苦難のなかで惨めさを味わい人間不信に陥りながらも、「私はなお信じた」と自らを回顧する。「信仰」は懐疑や不安の対極に位置するのではなく懐疑や不安のなかで働くのだ、と。

     神は、弱り果てた「私」を見守り、「私の魂を死から」救い出してくれた。神の真理は主イエスが私の中に住んでくださることにより明らかになる。三日三晩死の中にあって、死と闘って、甦らされた、いのちの主が、私たちの中に住んでくださる。その主が勝たれる。この主イエスのほかに神の真理を保証する何の「しるし」は存在しない。それゆえに、主イエスを見つめることと主イエスに聴くことを大切にし続けたいと思います。お祈りいたします。